病気と医療について考える~栗野的通信
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ガンで旅だった妻への挽歌と、病気と医療についての考察。
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認知症は生きる知恵かも
 認知症も悪いことではない。むしろ生きる知恵ではないのか--。
数年前、帰省して医師と面談し母の状態について説明を受けていた時、ふと、そう感じた。
 医学的見地からすれば認知症は病気であり、病気である以上治る治らないは別にしてマイナスと捉える。そのため医師はなんとか症状の進行をストップさせようとするし、私達もそういう目で見、接してしまう。すると結構ストレスがたまる。早い話、何度も同じ質問を繰り返されるからイライラするのだ。
 それでもこちらに精神的余裕がある場合はいい。ところが相手はこちらの状況などお構いなしに、自分の都合でいろんなこと(どうでもいいようなこと)を言ってくるし、自由気ままに振る舞う。症状が重くなると徘徊という行動にも出る。これにいちいち返答し、対応しなければならないから、日常的に接している家族はストレスとフラストレーションが極度に高まってくる。

介護疲れで「出口なし」に

 私自身もそうだった。まだ母の認知症が比較的初期症状の頃が最もストレスがたまり、自殺を考えるところまではいかなかったが、介護疲れで自殺する人の気持ちが実感できた。
 その頃、月の半分近くを帰省して母の側で過ごしていたが、日に何度も同じことを聞かれたり、突然情緒不安定になって訳も分からず泣き出し、挙句には「死にたい」と言われる。
 参るのはいままで上機嫌だったのが、突然情緒不安定になりマイナス思考に陥る時だ。もう、そんな時はどこかへ逃げ出したくなり、時にカメラを持って近くの野山に逃避したりしていたが、ある時、吊り橋の上から下を見ていて、このまま落ちれば(まだ「飛び降りれば」ではなかったが)死ねるな、という考えがふと頭に浮かんだことがある。
 危ない、危ない。介護で追い詰められ、ふっとそんな気持ちになった時、そのままふらふらと行ってしまうのだろうと、その時分かった。
「一人で抱え込まないようにしてくださいよ」
 実家近くでデイサービスを行っているケアマネージャーが時々そう言ってこちらを気遣ってくれたが、相談相手がいないと悩みは出口なしの堂々巡りになる。実際その頃、私は胃がキリキリ痛み、このままではこちらが病気になると思ったものだ。
 それでも病気にもならずにいままで来られたのは、一つには私の住所と実家の間に距離があったことがある。なんといっても高速自動車道を走って7時間の距離である。「来てくれ」と言われても即行ける距離ではない。それがよかった。いわゆるオンとオフの切り替えができたわけで、それで精神のバランスが保たれていた。

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何段階かに分かれて進む症状

 その後も母の認知症は緩やかではあるが確実に進行していた。このままでは早晩寝たきりになることも覚悟する必要があると考え、迷いに迷い、悩みに悩んだが、最終的に福岡に連れて来て、近くのグループホーム(あるいて30分足らずの距離)に入居させた。
 住み慣れた場所を離れさせることについてはプラスマイナス両面があり、医師等の専門家数人に尋ねたが彼らの意見も分かれた。
 環境の変化で認知症が一気に進む可能性もあるし、環境変化に戸惑うのは最初だけだから、どこでも一緒だと言う医師もいた。結局、誰も先のことについては分からないのだ。
 母の変化について言えば、恐れていたようなこと(急激な進行)は起きなかった。むしろ私に頻繁に会えることを喜んでいたが、それでも故郷への想いは断ち難く、「家に帰りたい」と折に触れ訴えられるのが辛い。その間も認知症は確実に進み、この頃は食事をしたことさえ時々忘れだした。

 そんな母をずっと見てきて、認知症の症状にいくつかの段階(初期、中期という段階ではなく、症状の現れ方の違い)があることに気付いた。もちろん、それは母固有のもので、誰にでも当てはまることではないだろうが、もし同じように身内に認知症の人を抱えている人がいれば何かの参考になるかもしれないと思い、以下に記してみる。

1.少女期に戻る(回想話が多い。我が儘になる)
2.愚痴話が多くなる(回想話が多い。我が儘になる)
3.嫌なことを忘れる(回想話が減る。我が儘が減り、感謝の言葉を口にし出す)

両親を名前で呼びだした母

 初期症状の頃、母は少女に戻っていた。小学校や女学校に行っている時の話、要は結婚前の話を繰り返しするようになった。もしかすると、その頃が母の人生で最も輝いていた頃だったのかもしれないと思ったりするが、自慢話だけでなく僻みっぽい話も多かったから、果たして「輝ける青春時代」だったのかどうかは分からない。だが、いままで知らなかった母の人生、精神(こころ)の変遷を垣間見ることができたのは事実だ。
 例えば親の愛情に飢えていたのに、どうも子供の頃、母親は姉の方をかわいがり、自分はそれ程かわいがってもらえず「私は本当は両親の子供ではなく、橋の下に捨てられていた子だったのではないかと思っていた」ようだ。生家が商売をしていたため親は子供に構う時間がなかったし、当時の時代背景からすれば子供が家の家事手伝いをするのはごく普通のことだったと思うが、母の精神(こころ)の中には、同じ姉妹なのに姉の方ばかりかわいがられ、自分は母親に疎んじられたたという意識がずっと残っていたようだ。

 この頃、母は両親のことを名前で呼ぶようになっていた。「お父さん」「お母さん」あるいは「おじいちゃん」「おばあちゃん」ではなく「Rさん」「Kさん」とまるで他人のように両親を名前で呼ぶのだ。これには随分違和感を覚えた。私はいままで母の言動から母娘仲はいいと思っていたし、箱入り娘とまではいわないが「お嬢さん」として育てられてきたはず。だが、母には両親、特に母親に対する不満があり、それを精神の奥深くにしまい込み、他人には言わずにきたが、認知症になったことで理性という蓋が取れ、いままで仕舞い込んでいたものが表面に出てきたのだろう。
 しかし、それは悪いことではない。もし、そのまま精神(こころ)に蓋をし、仕舞い込んだままだったら、いつか精神のバランスを壊していたに違いない。認知症はそうならないための防止策ではないか。そう思い始めた。

姑その他への愚痴話が増える

 母の第2段階は姑その他への愚痴だった。姑にバカにされ、虐められた愚痴話。その一方で親戚や近所の誰それに対し、子供の頃から面倒見てきたのに見舞いにも来てくれないと愚痴をこぼすことが増えた。
 これは孤独感に老人性うつ病が加わったのだろうと考え、孤独感に陥らないように「見捨てはしない」というメッセージを発し、実際、言葉でも伝えて、極力会いにも行っていた。すでにこの頃には実家近くの施設(自立支援型小規模多機能住宅)に入居させ、週3日はデイサービスにも通うようにしていたが、それでもそのほかの時間は自室で一人で過ごさねばならず、その孤独感に苛まれていたようだ。
 しかし、すべてを満足させることは難しいし、すべてを望むのはやめてくれ。せめて何か一つは我慢してくれ。でないと共倒れになる。
 すでに、もう充分、俺の時間をあなたのために割いてきている、というのが私の言い分だが、それを言って理解できる頭ではなくなっているから、言いたくても言えない。それがこちらも辛い、というか、こちらのはけ口がない。24時間、自宅で面倒を見ている人の大変さがよく分かる。よく発狂せずにいられるものだと感心さえする。

 とにかくこの段階が私自身は一番苦しかった。なんといっても愚痴話、マイナスの話はこちらにも負の影響を与える。精神的によくない。かといって、「その話は何度も聞いた」「もうやめろ」などとでも言おうものなら、母はより孤独感に陥るだろう。「息子だから愚痴を言っているのに、その息子にまで愚痴を聞いてもらえないのか」と、一度ならず言われたこともあるし、ある時など「お願いだから怒らないでくれ」と言われビックリしたことがあった。
 「怒ってないだろ」と言ったが、認知症を患った相手は言葉ではなく、表情や声の調子を敏感に感じ取るようだ。「怒られると、よけい訳が分からなくなる」と泣き出したのを見て、もしかすると私の態度が母の認知症を進めているのかもしれないと反省した。
 頭では常に理解しているのだが、時として感情が先走りそうになる。それを抑えながら接するにはどうすればいいのか。この頃はそれを自問自答し、悩み続けた日々だった。

毎回繰り返される会話

 昨春、母を福岡のグループホームに入居させてから認知症に変化が見られた。最初の内は2日に一度、いまでも週1か2週間に三度の割合で面会に行っているので以前ほど寂しがらなくなったが、その間も認知症は確実に進んでいた。
 いまではつい先ほど自分で言ったことを忘れ、まるでテープを巻き戻すように何度も同じことを質問したり話したりするようになった。ただ、こちらも対応にかなり慣れてきたので、何度同じ話をされても初めてその話を聞くように答えられるまでになった。二人の会話を第三者が聞いていると「おかしいんじゃないの」となるに違いない。
 実際、入居者の中に一人、それほど認知症が進んでない人がいて、そのおばあちゃんは私を含め他の入居者達との会話が我慢できないらしく「何度も来られているじゃない」「この人はおばあちゃんの息子さん。何度言えば覚えると」と、面会に訪れる私に興味を示し、毎回、同じ質問をするおばあちゃんに教えようとする。だが、相手はそんなことを分からない。認知症を患った人にとっては、その瞬間瞬間が現実なのだから、例え3分前に見たり聞いたりしたことでも、いま目の前にある光景こそが初めて見る光景で、3分前の光景は完全に消し去られている。
 かくして、私が訪れると毎回次のような光景が数分おきに繰り返される。
「こちらはあなたのご主人?」とAさんが母に尋ねる。
「主人なわけないでしょ。息子。長男です」と母
「えっ、息子さん? 初めて見た。いい男ね」
「なに言いよんしゃると。もう何度も見えられとろうが。こちらはおばあちゃんの息子さん。何度言えば覚えると」と認知症がほとんどないBさんが多少イラついて教えようとする。
「まあ~息子さん。いい男ね。惚れ惚れするわ」とAさん
「ありがとう、ほめてくれて」と母

 私がグループホームを訪れると、まるで決まり事のように、こうした会話が繰り返される。皆、認知症とはいえ、いつもと違うものを見たり、いつもと違う人と話をしたいという欲求、好奇心、刺激を求める精神があるのだろう。母自身もよく訴える。「また来てね。身内の顔を見れば刺激になるから」と。

正常を保つために忘れていく

 直近のことは忘れるが、昔のことはよく覚えている。それが認知症の特徴と言われているし、そう思っていた。だが、母と話していて記憶が段階的に微妙に変化していくことに気付いた。既述したように少女期の話が多い時期と、姑等に対する愚痴が増えた時期へと変わり、いまは愚痴が減り、むしろ感謝の言葉を口にするようになった。
 脳が委縮し、思考する力が衰えたのだろうが、ある時何かの拍子に「おじいさんのことは覚えているけど、おばあさんのことは覚えてない」と母が口にし驚いたことがある。どうやら記憶から姑に関する嫌な記憶が消えたというか、消してしまったようだ。
 記憶があれば楽しいこともあるが、その逆もある。だが長年生きていればいいことばかりではなく、嫌なことも数多くあるだろう。記憶から嫌なことだけ消せればいいが、そういうわけにもいかない。それならいっそ記憶そのものを消し去り、いまを生きる方がいいかもしれない。そうすれば穏やかな気持ちで毎日を過ごせる。
 いまを生きる知恵--それが認知症ではないだろうか。神が与えてくれた力、認知症。そう考えれば認知症も悪くはない。
 人は彼岸に行く前、すべての煩悩を捨て去る。母は煩悩を捨てる準備を少しずつ始めたのかも分からない。
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# by kurino30 | 2016-02-05 23:07 | Trackback | Comments(0)
終着に向けてラストウォーキング
 よく生きたものはよく死ぬ、という言葉はあっただろうか。よく死ぬとはよく生きることである、だったか。いずれにしろ終焉をどう迎えるのかというのはとても難しい。
 それはきれいごとでは済まないからだ。本人の意向と家族の意向が違うことはよくある。家族にすれば1日でも長く生きて欲しいと思うが、本人の方は機械によって生かされているような生き方はしたくない、あるいはこの苦しみから早く解放されたい、と思うから延命処置は必要ないと言う。それでも本人の意思がそのまま通るとは限らない。意識がなくなれば後の処置を決めるのは残された家族だからだ。

 弟は自らの意思で終焉の迎え方を決め、いま終着に向かって静かに歩み始めている。私は1週間前に続き、昨日、再び病院を訪れ、「よく頑張った。もう力を抜いていい。ゆっくり逝け」と弟に話しかけてきた。
 弟がラストウォーキングを始めたのは4月20日。それより数日前、17日の午前10時、電話がかかってきた。
「兄貴、21日の週に来ると言っていたけど、いつなのか日にちを決めてくれ」
 日にちを決めろとは妙なことを言う。1日ベッドで寝ている身になにか都合でもあるのかと訝り、思わず「なにかあるのか」と問い返した。
「痛くてたまらんのや。もう、このまま永久に眠りたい。そうさせて欲しい、と皆に言っているんや。それでも兄貴の顔を見ずに行くわけにはいかんから。21日の週に兄貴が来ると言っているから、それまでは頑張るから、と先生には言っているんや」と泣く。

 電話口で言った弟の言葉が気になった。「21日に行く」とは返事したものの、すぐにでも行ってやった方がいいだろうと考え、それからバタバタと雑用を済ませ、車に荷物を積んで中国道を走り、取り敢えず岡山県北東部の実家まで帰ったのが17日の夜中。場合によってはGWが終わるまで滞在することも覚悟し、黒服も持って帰った。

 翌18日、病室で見た弟のあまりの痩せように驚いた。この1か月あまり点滴のみだから痩せるのは仕方ないが、目が窪み、頬がこけ、骨と皮のようになっていた。1か月前に母を連れて見舞いに行った時はまだそれ程痩せてはいなかったのに。

 母を弟に会わせるかどうかは随分迷った。入院している弟の姿を見てショックを受け、認知症が進むのではないかと恐れたのだ。
 それでも連れて行ったのは、「見舞いに連れて行ってくれ」と母が言っていたのと、「私がお母さんなら会いたいと思うよ」と言ったホームドクターの言葉に後押しされたからだった。
「会わせるならお母さんも弟さんも元気なうちの方がいいでしょう。いよいよになって会うとショックも大きいでしょうから」

 そうか、そういう考え方もあるかと思い、神戸まで連れて行くことにした。車で1時間半の距離は微妙だった。年寄りには疲れるだろうし、なにより車内に2人きりだとどうしても空気が重苦しくなる。ただ幸いだったのは、そうした事情を理解した彼女が福岡から同行してくれ、ずっと母の話し相手をしてくれたことだ。
 母はこれが親子の最後の別れになるとも思わず、久し振りに賑やかなドライブを楽しんでいた。

「もう痛み止めも限度一杯使っているんや。それでも夜眠られん」
「よう生きてきた。よう頑張ってきたんや。もういい」
「兄貴の顔を見ずに行くわけにいかないから。兄貴が来るまではと思っていたんや」
 延命処置は望まない、と入院時に伝えていた。「もう眠らせてくれ」というのが本人の意向だが、あまりにも淡々と話すので、「眠りたい」というのが、「夜、ぐっすり眠りたい」ということなのか「永久の眠りに就きたい」ということなのか、正確には分からなかったが、意味を本人に確認するのはさすがにできなかった。

 数日後、弟嫁から突然ケータイメールが届いた。
「彼はもう携帯は使える状態ではないです。お兄さんに会ってから終着に向けスタートすることを決めていたので、日曜日からそれに向けての注射を始めました」
 弟に連絡する時は電話ではなくケータイにメールするようにしていた。眠っている時に電話で起こすのは可哀想だからだ。目覚めてメールを見れば弟が電話をしてくる、というのが入院後、2人の連絡の取り方だった。
 ところが数日前に病室に弟を見舞った後、メールを2度ほど送っているのに電話がないので、おかしいなと思っていたところだ。

 起きていると痛みを感じて苦しいから、できるだけ眠っていられるようにしましょう。医師からはそう聞いた。
 もう他の処置をせず、眠ったまま自然に旅立てるようにして欲しい。それが弟の希望だった。最初は反対していた家族も、最後は弟の懇願に負けた形で折れたようだ。

 ケータイメールが届いた翌日、再度病室まで飛んでいった。
「○○さん、お兄さんが来られましたよ。分かりますか。目を開けて下さい」
 看護師が弟にそう呼び掛けてくれた。
 弟の名前を叫ぶ私の声はもう涙声だった。
「お兄さんが来られたの、分かっていますよ。涙を流してはるから」
「目は開けんでいい。瞑ったままでいい」
 なんとか目を開こうとする弟の動きを見て、私は弟にそう呼びかけた。
来ていることが分かっているなら、こちらの声が聞こえているなら、それでいい。

「おこひて、おこひて、おこひて」
 突然、弟が呂律の回らない声を発した。とっさにはなにを言っているのか理解できなかったが、どうやら体を起こしてくれと言っているらしいと分かり、電動ベッドを調整して、上体を少し起こしてやった。
 病室にいる間、弟が声を発したのはこれだけだったが、何度も何度も弟の眼から涙が流れた。

 1時前、病室を出て昼食をとっている時、突然、弟の考えが頭に浮かんだ。終着に向けてラストウォーキングを始めたのは、痛みや苦しみから逃れるためではなく、いや、それはもちろんあるだろうが、むしろ家族への思いやりだったのだ、と。
 ホスピスに入院してから、ことあるごとに嫁や息子の「了解をとって」、嫁に「済まないなと言いながら」と、家族に遠慮するような口ぶりが目立った。
 そういうことも併せ考えれば、できるだけ早く旅立った方が家族の負担が少なくなると考えたに違いない。

 数か月前、母を連れて行こうと思っていると弟に告げた時、弟は拒否した。あまり激しく拒否するので驚いたが、望まないのに会わせるのはやめようと計画を断念。ところが翌朝、電話がかかってきて「お袋は会いたいやろうな。会いたいと思うわ。連れて来て」と言ったので、この時も急遽、福岡から飛んで帰った。思えば私の行動はいつも急遽だ。

 この時すでにガンは膵臓から肝臓、リンパ節に転移しており、腸閉塞も起こしていたので、口から摂ることができるのは液体のみ。それも鼻からチューブを胃まで入れ、飲んだものを常時排出する処置を取っていた。「こんな姿をお袋には見せられない」。それが最初、拒否した理由だった。
 母を連れて行った時、弟はマスクをして鼻に入れているチューブが見えないようにしていた。私と違いどこまでも気を使う奴だった。

 弟のこうしたやさしさを考え併せた時、今回の弟の行動が全て理解できた。
病室に戻り弟に声を掛けた。
「お前の考えはよく分かったよ。家族への思いやりだったんだな。もう楽になっていい。力を抜いていい。ゆっくり逝け」
 弟の眼からまた涙が流れた。
目元をタオルで拭いてやり
「もうこれでお別れだ」
そう声を掛けて病室を後にした。
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# by kurino30 | 2014-05-16 10:55 | Trackback | Comments(0)
悲しみの数だけ人はやさしくなれる。
 「お義兄さん、何がきっかけだったんですか」
1昨年の夏、すい臓がんの手術をした弟を病室に見舞った後、弟嫁からそう尋ねられた。
「私達の前では涙なんか見せたことがないのに、お義兄さんの姿を見た瞬間泣いていたでしょ。それだけお義兄さんを信頼しているんですね」

 実は兄弟仲は長いこと悪かった。弟から家に電話がかかってきても私が出ることはなく、妻を介しての三角会話をするほどだった。何が原因で兄弟仲が悪くなったのかいまとなっては思い出せないが、事あるごとに私に突っかかるような言い方(と当時は感じていた)を弟がしてくるのが癇に障わっていたのは事実だ。
「たった二人しかいない兄弟なんだから、もう少し仲良くしたら」と、なんども妻に言われていた。
 その頃は「血の繋がり」という言葉が疎ましくもあった。血の繋がりという生物学的な関係より、環境や思想を共有する関係の方に近さを覚えていた。私は自分の自我やアイデンティティーの確立は学生の頃だと思っていたから、それまでは単に人生のある時期を一緒に過ごしたというだけの関係に過ぎない。弟といえどもその点では同じだった。
 ところが妻の死をきっかけに二人の関係が一変した。それまでの不仲から一転して、互いを思いやる仲の良い兄弟へと変わったのだ。妻の置き土産かとも思うが、同じことなら妻の生前にこの姿を見せてやりたかったといまごろ後悔している。

 何がきっかけ、と聞かれても困るが、大体、不仲の原因なんてちょっとした行き違いや、思い違い、誤解から生じていることが多い。要はコミュニケーション不足だ。
 国と国との関係、親子でも同じことだろう。零細企業は家族経営がほとんどだろうが、家族経営であるが故の難しさもある。親子の関係が一度こじれると他人より修復が利かなくなる。聞けば大抵親子間で会話がないと言う。日常会話ならまだいいが、そこにとどまらず社長と社員としての仕事上の会話もほとんどないと言うから、よく会社が回っていると感心する。
 しかし、よく聞いてみると互いが互いの判断でやっており、組織としてやっているわけではないようだ。中小零細企業の弱さは案外この辺りにあるのかもしれない。
 もし親子間コミュニケーションがないと思われている企業は一度、血縁を離れて、相手を他人、社長、社員として見てみればどうだろう。他人に仕事をしてもらう場合、目的、仕事の流れなどの報告、連絡、相談をしないことには仕事がうまく捗らないことに気付くのではないか。なあなあで済ませてきたことを言葉に出して言うことが必要だと。

 「兄貴は義姉さんがいないと何もできないだろう」。弟が私によく言っていた。当時はこうした言葉さえ、どこか私に突っかかってきているようで疎ましく感じていたが、妻が他界した後しばらくして電話があり、「兄貴、食事はちゃんと摂っているか。不自由しているんではないか」と言われた時、不思議と素直な気持ちで聞くことが出来た。
 多少哀れみの気持ちもあったのだろうと思うし、こちらも気弱になっていたこともあり、弟の言葉にそれまでとは違うやさしさを感じた。早い話が互いに一歩か半歩ずつ引いた瞬間、相手の言葉がストンと腑に落ちたのだ。
 まさに氷解という感じだった。それまでのわだかまりが一気になくなり、互いが互いの言葉を素直に聞けるようになると、長年の不仲を取り戻すように相手を思い遣り、かける言葉がやさしくなっていった。私が帰省すると弟も神戸から帰って来るし、二人で旅行に行ったりと母が嫉妬するぐらい仲良くなった。

 「悲しみの数だけ人はやさしくなれる」。そんな言葉をどこかで見たような気がする。歳のせいもあるかもしれない。それまではなんでも出来ると思っていた自分が、そうではなかったと気付いた時、人の弱さを受け入れることが出来るようになり、同時に自分の弱さも受け入れた。
 「我慢しなくていい。泣いていいんだ。思い切り泣けばいいんだよ。泣けば少しは楽になる」
 昨秋、「医師から春がヤマと告げられた」と涙声で言ってきた時、私は弟にそう声を掛けた。
「お前が男として、父として頑張ってきたことは家族の皆も分かっている。だから我慢せず泣いていいんだ」と。

 この数年、年明けに弟も帰省し、一緒に過ごすのを恒例にしてきたが、今年はしんどいから帰れないと言ってきた。そして1月中旬。食事がほとんどできないと言う。
「できるだけ自宅で過ごしたいんや。今度、入院すると・・・」
 その次の言葉は発しなかったが言わんとすることは分かった。それでも私は再入院を強く勧めた。
 いままでは一切ああしろ、こうした方がいいとは言わなかった。
経験者が陥りやすいのは自分の体験を相手に押し付けようとする嫌いがあることだ。粒子線治療で治った人はそれが絶対のように言うが、治療法には相性のようなものもある。だから、この治療法がいいとも言わなかった。ただ、こういう治療法もあるぞ、という情報を伝えるだけにした。
 抗がん剤治療を拒否した時もなにも言わなかった。というか常に弟が選んだ方法を追認するようにしてきた。だが、今回だけは「お願いだから入院してくれ」と頼んだ。医師の監督下に置かれた方が衰弱しないと思ったからだ。

 入院したと聞き、できるだけ早く見舞いに行くと返事すると「慌てて来なくてもいいよ。元気なんだから。まだ寒いから暖かくなってからゆっくり来ればいいよ。来て欲しくなったら、早く来てくれと連絡するから」と言っていたが、その1週間後、「兄貴、早く来てくれ」と言って電話が切れた。
 弟はその後ホスピスに転院した。再入院した時から緩和ケアしか行ってない。
人は悲しみの数だけやさしくなれる、という。
でも、私はもうこれ以上やさしくならなくていい。
もう同じ悲しみを味わいたくはない。
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# by kurino30 | 2014-05-09 10:35 | Trackback | Comments(0)
電話中に弟の脳血栓に気付く
 弟が膵臓ガンの手術をしたのが2012年7月31日。
その1週間後、神戸の病院に見舞いに行く。
さらに約1週間後の8月11日(土)、弟と電話で話している時になにか声の様子がおかしいことに気付いた。
もしかすると電話口で泣いているのかも、そう思った。
というのは弟が声を詰まらせていたからだ。

 「元気がないけど調子悪いのか。検査結果で異常が見つかったのか」
術後の状態が気になっていた。
手術は一応うまく行ったように見えていたが、もしかするとほかの場所にもガンが見つかったのか、それともなにか異常があったのだろうかと思い、尋ねた。
「元気を・・・」
「元気を・・・」
 弟は同じ言葉をまるで壊れたレコードのように繰り返すばかりだった。
「元気を・・・」だけでは、その後に「出そうと思っている」のか、「出したくても苦しくて元気が出ない」と続くのか分からない。
もしかして、泣いているのかも。
そう思ったから「泣いているのか? それとも頭では言葉が浮かんでいるのに口で言葉が出ないのか」と尋ねた。
「・・・。言葉が出ない。また後で電話する」
そう言って電話が切れた。

 脳血栓ではないか。
そう感じたので、すぐ弟嫁に連絡し、病院に行き医師に連絡するようにと告げた。
いつもは電話にも出ない弟嫁だったので、すぐ行動してくれるかどうかが心配だったが、この時の動きは素早かった。
30分後には病院に行き弟の状態確認。
ところが、その頃には正常に話ができる状態に戻っていたため、弟も看護師も「いや、大丈夫ですよ。変わったところはないし」という感じだったらしい。

 ここで、「ああ、よかった。なんでもなかったのね」とホッとし、そのままにしなかったことが幸いだった。
「義兄さんが脳血栓だと言って怒っているんです。すぐ先生に診てもらって下さい」
 何も異常はない、と言う看護師にきつく迫ると、その剣幕に驚いた看護師がともかく医師に連絡。
脳血栓ではないかと家族が言っていると聞いた医師は慌て、バタバタと動き、すぐ点滴。
3日間絶対安静を告げた。
 脳血栓の場合、普通は血栓を溶かす薬を処方するが、まだ術後で抜糸もできてない状態。
血止めの方が必要で血栓を溶かす薬はまだ使えない。
そこで取り敢えず絶対安静を指示されたのだ。

 後日、弟嫁からの連絡によると、やはり脳梗塞を起こしていたらしい。
弟は「医師からラクナ梗塞と言われた」と、あまり気にしていなかった風だが、もし対応が遅れていればガンの手術はうまく行っていても、脳梗塞で半身不随、軽くても言語障害が残ったかもしれない。
 もし、電話中に言葉に詰まるという症状が現れなかったら、
もし、その時の電話の相手が私でなかったら、
もし、私に脳梗塞に関する知識がなかったら、
もし、私がすぐ弟嫁に連絡しなかったら、
もし、弟嫁がすぐ病院に駆け付けなかったら、
病院に駆け付けても、弟の状態を見て普通なのに安心し、医師に訴えなかったら、どうなっていただろうか。
 このどれか1つでも欠けていたら、間違いなく弟は後遺症に苦しむことになっただろう。

 脳梗塞は時間との闘いだと言われている。
発症から4時間以内なら後遺症もなく助かる確率が非常に高い。
逆に最初の発症から4時間経った後に病院に行っても後遺症は残ると言われている。
「4時間以内」が目安なのだ。

 「4時間以内」というのは<最初の発症から>で、ほとんどの場合、最初の兆候を見逃すから、結果、手遅れになるのだ。
弟の場合でも言葉が詰まったのは一瞬である。10分後には普通に戻っているから、「あれは一体なんだったんだろう」と脳梗塞の初期症状(脳血栓)と気付かないことが多い。
 とにかく以下の様な症状を見逃さないこと。
症状に気づいたら、即、救急車を呼ぶことが大事らしい。
 ・ろれつがまわらなくなる
 ・言葉が出なくなる
 ・握ったもの(コップなど)が手から落ちる
 ・相手の言うことがよく理解できない
 ・片側の視野が欠けるため物や人にぶつかってしまう
 ・片方の目が見えにくくなる
 ・物が二重に見える
 ・めまいがする、ふらつく
 ・力はあるのに立てない、歩けない

 ところで、ラクナ梗塞というのは脳内の細い動脈に直径1.5cm以下の梗塞ができることで、脳梗塞の半数近くを占めている。
だが、「ラクナ梗塞でした」などと専門用語で言われると、脳梗塞にも入らない「楽な」梗塞と思いがちだが、それは大間違い。
「ラクナ」は英語表記で「Lacunar」。フランス語の「湖」を意味する語から来ている。脳の深い所に生じた小さな湖という意味だ。
 専門家は専門用語を気軽に使い、そのことで大した症状ではないという風に思わせる傾向がある。
だが、こうした専門用語に騙されてはいけない。
 医師が症状を軽く表現する場合、2つの意味がある。
1つは患者が受ける精神的ダメージを小さくし、希望を持たせようとする場合。
もう1つは彼らにとって技術的に難しい病気ではない場合だ。
しかし、ミスは簡単な所、初歩的な所でいつも起きる。

 例えば盲腸の手術なんて外科医にとっては「目を瞑っていても出来る簡単な手術」だ。
だが、簡単な手術だからこそ慣れが油断を生み、体内にガーゼを残したり、鉗子を忘れたまま縫合するという信じられないミスを起こしたり、他の血管を傷付け、そのことに気付かないまま縫合し重篤な後遺症が残ったり、最悪の場合死亡するなどということも起こっている。
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# by kurino30 | 2014-03-29 23:21 | Trackback | Comments(0)
一切否定しない、指示しない。
 弟からガンの連絡があり、弟嫁からさらに詳しい症状の連絡があってから、私が自分自身に決めたことがある。
弟が言うことをすべて受け入れて、否定するようなことを言わない。
ああしろ、こうしろと治療等について指示しない。
そして心がけたのが、聞かれると答えるが、その場合も選択肢を提示するだけで、こちらからこれがいいと無理に勧めないことだった。

 なんといってもこちらは経験者。
妻がガンで亡くなったというだけでなく、弟と同じすい臓ガンで亡くなり、1年間看病したのだからガンに対する知識はある。
それだけに色々言いたくはなるが、そうした態度を一切慎み、聞き役に徹することにした。
弟のガンのステージについても聞いて知っていたが、弟が「俺の場合は早期発見だったからよかった」と言うので、「本当によかったよ」としか言わなかった。
手術後の抗ガン剤治療が苦しくて「やめようと思っている」と言ってきた時は「主治医はどう言っているのか。先生と相談してみらどうだ」と返事し、いま使っている抗ガン剤の名前を聞いただけだ。
 数日後、抗ガン剤の副作用で肝機能が著しく低下したので、医師からも抗ガン剤はやめましょう、と言われた、と連絡が入る。

 抗ガン剤をやめたというので、AHCCを買って弟に送る。
アガリクスなどと違い、工場生産なので品質が一定していること、使用している病院もあり、ある程度の効果も確かめられていたからだ。
 一応内容は説明したが、ネットでAHCCを調べてみるといい、と伝えておいた。
「どんな治療法、どんな薬でも自分で納得してすることが大事だ。納得しない治療法を受けると効くものも効かなくなることもあるから」

 AHCCのことはすい臓ガンと分かった時に、情報として教えておいたが、その時はそれを飲むようにとも、買うようにとも言ってない。
とにかく選択肢は教えておかなければといけないと思ったが、こちらから指示するのはよそうと決めていたからだ。
 どんなに平静を装っていても、本人は不安で一杯に違いない。
その不安を和らげるのは話を聞いてやることと、本人が選択したことが正しいと肯定することだけだと思っていた。
 このことは妻が亡くなった後に、気付いた。
もっと早く気付いて、そのように接していれば、妻の心はどんなに軽くなっただろうかと未だに反省している。
だから弟の時は同じ轍を踏まない、と決めている。
そして、この態度はいまも貫いている。

 手術から3か月後の夫婦海外旅行だけは「できれば止めた方がいいだろう」と言ったが、年末の沖縄離島旅行計画を告げられた時も「国内だし、手術から5か月たっているから、まあいいんじゃないか」と同意した。
 あれはだめ、これはだめと言うと、そのことがストレスになり体にダメージを与える。
それよりはしたいことをさせてやる方がよほどいいかもしれない、と考えたからでもある。
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# by kurino30 | 2013-08-24 18:24 | Trackback | Comments(0)
顔を見て弟が涙を流す。
 手術から1週間後、神戸の済生会病院に弟を見舞う。
福岡から岡山県東部の実家まで一度帰り、翌日中国自動車道を走っている縦貫バスに乗って西宮まで行き、バス停まで迎えに来てくれた弟嫁の車に同乗し済生会病院に。

 問題は朝家を出る時、お袋にどう説明するかだったが、前日、「明日は大阪の友達に会いに行く約束があるから」と説明をしておいた。
 ただ認知症が少し出ているので、翌日、出かけると言うと、どこに行くのか、いつ帰って来るのか、神戸の弟とは会わないのかなどと聞いてくるだろう。
 弟に会いに行くと言えば、自分も連れて行ってくれと言うだろうから、弟の病気、手術のこともお袋には一切隠していた。
 だが、大阪に行くと伝えた時から、なんとなく弟と会うのではないか、と勘付いている風だが、「大阪の友達と会う」で押し通した。

 術後1週間目に見舞いに行ったのは、順調にいっていればこの頃は喋れるだろうと思ったからだ。
病室に見舞うと弟は元気だった。
開腹傷跡を見せてやろうかと、腹巻きを外して見せてくれたりしたが、俺の顔を見た瞬間、タオルを顔に被せしばらく黙っていた。
「私ら家族の前では涙を見せたことがないのに。この人が泣いたのは今日が初めてですよ。やはりお兄さんを信頼しているんやわ」と弟嫁が言う。

 手術のせいで腹に力が入らないからだろう、声に力がなく少しかすれている。お袋のことを随分心配して色々尋ねるが、その時の喋り方と声が亡くなったオヤジにそっくりだったのでビックリ。
そのことを弟に告げると「オヤジに似ているのは俺じゃなく、兄貴の方だよ」と言い、また涙ぐむ。
家族の前では気丈に振る舞っていたようだが、やはり心細かったのだろう。
泣きたい時には我慢せず思い切り泣けばいい。
そう言ってやりたかったが、嫁の前では心をさらけ出せないのかもと思い、言葉を飲み込んだ。

 昼食がまだだったので、その後、病院の食堂(レストランと言うより食堂という表現の方が近い感じ)で食事をしながら弟嫁に今後の心構えを話し、いつでも力になるから愚痴でもなんでも私に話すようにと伝える。
退院後から家族の長い闘いが始まるのだから。
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# by kurino30 | 2013-08-21 00:10 | Trackback | Comments(0)
弟も膵臓癌に罹る。
 妻が膵臓癌で他界してから丸10年が経過した昨年7月、弟が膵臓癌に罹ったことが分かった。
妻と弟は血のつながりがない。
それなのになぜ、それも同じ膵臓癌に、と愕然とした。
しかも、同じようにステージ4。
違ったのは弟の場合は手術が可能ということだった。

 発端は胃が痛むと訴えたことだった。
食事をすれば収まるが、腹が空くと胃が張ったような感じがして痛くてたまらないと言っていた。
1、2カ月たっても相変わらず胃の不調を訴えるから、病院に行くことを勧め、胃カメラを検査をしたことがあるかと尋ねると、一度もないと言う。
それならまず胃カメラ検査をするようにと伝える。

 検査結果は異常なし。
それでやれやれと思っていたが、それから1カ月近くたっても相変わらず胃が痛むと言うので、考えられるのは2つしかないと伝える。
1.医師は予測検診しかできないから、見落とすこともある。
 重要なのは自覚症状があることで、再度医師に訴えて他の箇所も調べてもらった方がいい。
2.ストレス性から来ている。

 いずれにしろ再検査するようにと進言したところ、すぐ病院に行きMRI検査を実施することになった。
ところが、検査をすると決まった段階で医師が「手術をするかどうかはその後で決めましょう」と言ったらしい。
それを聞いて、MRIの検査結果が出る前に、既に医師は恐らく手術が必要になるかも、と分かっているのだと思った。
 結果はその通りで、検査から1週間後の7月30日に手術とバタバタと決まった。

 弟嫁から電話で、膵臓癌と知らされる。
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# by kurino30 | 2013-05-31 11:41 | Trackback | Comments(0)
共に苦しむ
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介護する方、される方

共に思うようにならず

時々喧嘩し、相手を苦しめる。
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# by kurino30 | 2010-08-11 11:32 | Trackback | Comments(0)
退院させてくれと涙声で訴えてくる。
 母が入院したので、しばらくは帰省せずに自分の仕事に集中できるはずだった。
だが、入院中のことが心配で、結局帰省して1週間滞在することにした。
その間、2日に1回見舞いに行き、洗濯物を持ち帰り、着替えを届けた。
入院したのが2月だったこともあり、暖房が効いている部屋で寒さを感じることもなく母は喜んでいた。

 ところが1か月後、母から電話がかかってき、「退院させてくれ」と涙声で訴える。
何があったのかと驚いたが、「もう治ったし、ここにいても後は同じだから、家でボツボツやる方がいい」と言う。
強制的に入院させたわけでも、ずっと入院しているようにと言ったわけでもなく、むしろ本人が入院を望んだから入院させたわけで、この間まで喜んでいたのにこの変わり様は何だ。
「どうしても退院したいなら退院手続きをしてあげるけど、何か問題があったのか」と問うと、どうやら病室を替わったことがきっかけになったらしいということが分かった。
さらに聞いていると「隣のベッドの人が寝言を言うから寝られない」という。
なんということだ。
自分は昼間寝ているから夜目が覚め、今度は隣の寝言が耳に付き寝られないのだ。
その程度のことで、と思ったが、泣いて電話してくるぐらいだから、「仕方ない。退院させよう」と弟と相談し、退院手続き等は弟に頼むことにした。

 退院後の母の言い分はこうだ。
「寝言というのは普通一言か二言に決まっている。それを隣の人は寝言で会話をしている」と。
それを聞いてビックリした。
たったそんなことで退院したいと言ったのか、と二人とも呆れてしまった。
これから先どれぐらいの期間、母のこんな我が儘と付き合わなければならないのだろうか。
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# by kurino30 | 2010-06-01 00:20 | Trackback | Comments(0)
母を入院させる。
 母の腰の具合は日を追って悪くなった。
秋頃、レントゲンをとって見てもらうと、3番目と5番目の椎骨が潰れている(骨折)と診断された。
一つは古いものだが、もう一つは新しいから最近骨折したものだといわれ、思い当たることがあった。
 水害直後の後片づけが少し一段落した8月の終わり頃、庭の畑でバランスを崩し、母が背中から転んだのだ。
転びかけ物干しポールを掴んだのだが、ポール台の安定が悪く、ポールごと倒れてしまった。
 もんどり打って倒れたとはいえ畑だったので、腰を強打した風にも見えず、本人もどこか痛みを訴えるでもなく、そうした事実さえ忘れていたが、新しい骨折と医師に言われ、その時に違いないと私は思った。

 若い時ならなんということはないだろう。
ところが、歳を取るとクシャミでさえ骨折することがあるというぐらいだらか怖い。
「入院すれば治る」と診療所の医師は言ってくれたそうだ。
ところが、1か月も入院すれば惚けるかも分からない、と本人も家族も、そちらの方を恐れた。
歳だから多少のことは仕方ない・・・。
そんな気持ちも正直あった。
私も弟も腰痛とは長年付き合っているだけに、それ程真剣に、また親身になって考えなかったのは事実だ。

 だが、互いに仕事があるため、神戸と福岡に帰り、時々電話で安否を尋ねるしかなかった。
その内、入院させた方がこちらも楽だから入院させようということになり、弟に帰省して入院の段取りをしてくれるよう頼んだ。
母にもそのことを告げた。
ところが母の態度がはっきりしない。
数日前までは「入院しようかと思う」と言っていたのが、「いや、入院せんでもやっていける。入院したら私は惚けると思う」と言う。

 これまでにも、こうした会話を何度か交わしていた。
一度などは入院の方向で話が決まっていたのに、前日になり「入院しなくても大丈夫だから帰らなくていい」と母が弟に電話して断ったこともあった。
 それなのに後になり、「私は入院したかったんだ。それをリュウが、入院したら惚ける、と言って入院させてくれなかった」と責める。
それを聞いた弟は「もういい加減にせえよ」と怒る。

 こんなやり取りにその都度翻弄され、私も弟も疲れていた。
だから自分達のためにも入院してもらいたかった。
「とにかく入院させよう。でないと、また後で入院したいと言ってくるに決まっているから」
そう話し合い、今度は有無を言わせず入院させることにした。
といっても母の意思に反して強制的に行ったわけではなく、本人の意思を確認しているとその都度揺れるから、こちらが段取りをしたというだけで、そうと決まると母は入院の準備をあれこれと始めだし、その様子はなにか嬉しそうにも見えた。
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# by kurino30 | 2010-05-26 12:26 | Trackback | Comments(0)