病気と医療について考える~栗野的通信
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ガンで旅だった妻への挽歌と、病気と医療についての考察。
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ガンの告知について(1)

 ガンの告知はすべきかどうかーー個々に意見の分かれるところだと思います。
妻が最初に福大病院に入院し、検査結果が出た時、私が医師に呼ばれてガン、それも末期だと告げられました。
それと同時に、病名を本人に告げるかどうかの決断をその場で求められました。1人で決断するにはあまりにも重すぎる問題です。
できれば数日、考える時間が欲しい。それがその時の私の偽らざる気持ちでした。

 この時、私はその年の正月に妻と交わした会話を思い出しました。
私の実家は岡山県(兵庫県との県境)で、いまでも母はそちらに居ます。
父は6年前に亡くなりましたが、父が健在な頃から、正月は両親がこちらに来て家族4人で過ごすのが習慣になっていました。
父が亡くなってからは家族3人になりましたが、それでも年末近くになると母がやってきて、正月を一緒に祝うようにしていました。
その年の正月も母が来ていました。

 話のきっかけは忘れましたが、なぜか墓やガンの話になりました。
「もしガンになったら、そうね、ぼくは知らせて欲しいな。お前は?」
 と妻に聞きました。
母ではなく妻に聞いたのは、老い先短い母にそれを尋ねるのは仮定の話ではなくなりそうな気がしたからです。
だが、私や妻の場合は「死」を話題にしてもまだ仮定の話です。
当分、縁がない、と思っていましたから。

「私は自分の人生だから知らせて欲しい」
 妻はそう言った後、少し躊躇って
「いや、知らせて欲しくない」
 と、前言を訂正したのです。

これは少し意外な反応でした。
私の場合は「知らせて欲しい」と言いましたが、それは多少粋がって言った部分があり、内心は、もし自分がガンだと分かったらとても冷静ではいられないだろうと思っていました。
その点、妻の方がしっかりしていると考えていましたから、妻の「知らせて欲しくない」の言葉は、私には随分意外な気がしたものでした。

 ともあれ、医師から告知するかどうかの決断を迫られた時、ふいにその時の会話を思い出しました。
「知らせません」
「分かりました。それなら我々も本当の病名は伏せておくことにします。しかし、大事なのは一度決めたらそれを途中で変えないことです」

 かくして、妻にはガンを伏せたまま病院側も接することになりました。
だが、根掘り葉掘り聞かれた時、どう答えるか。
その答えが私と病院側で異なると不審を抱かせ、逆にガンだと思わせることになります。
そこで膵臓に腫瘍が出来ているという部分までは言ってもいいと医師に伝えました。
というのは、腫瘍らしいものが出来ているということは、すでに入院前から本人も知っていたからです。だから冷静に考えれば腫瘍=ガンだということは分かるはずです。
でも、我々はそれで押し通しました。

妻もその頃はどこが痛むというわけでもなく、健康体そのものという感じだったので、それ以上疑わなかったようです。
実際、非常に明るくて、当時見舞いに来た人も「本当に病気なの? 私らの方が病人みたいよ」などと笑っていました。
本当に私もガンというのは誤診ではないかと思った程でした。

 告知しない、という私の選択は正しかった。
妻の叔母に話した時、そう納得しました。
 それは叔母が
「私も乳ガンと知らされた時、世の中が一変してしまった。もう生きた心地がしなかった。知らされん方がよかった。容子も私と性格は似ているから、強そうに見えても実際は違う」
 と話してくれたからです。

 でも、黙っているのは結構辛いものです。
「ロバの耳」を思い出していました。
喋ってはいかんと言われれば言われる程喋りたくなり、とうとう土を掘って、穴に向かって「王様の耳はロバの耳だ」と言うあの話です。
結局、独り秘密を持ち続けることができず、母と、妻の最も近い身内の叔母、それに友人2人に喋ってしまいました。

 1人の友人は兵庫県なので、彼に喋ってもそこから話が広がる恐れはないという安心感から、つい打ち明けたのですが、以来、彼は10日と空けずに電話をくれ、「奥さんの具合はどうね。自分は大丈夫か。自分まで倒れたらなんにもならんで。そうか元気ならいいわ」
 と励まし続けてくれました。
もう1人は福岡にいる、古くから知っている知人ですが、彼の対応は正反対でした。
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by kurino30 | 2004-11-30 23:05 | Trackback | Comments(0)
モルヒネと不安
 4月5日、この日は忙しい1日でした。
10時にガンセンターに行き、主治医に本人の希望もあり最期はホスピスで迎えたいと告げました。
「ところで先生、夏まで持つでしょうか」
「夏? 春が越せるかどうかです。あと1、2カ月、あるいはそれより短いこともある」

 この段階でも私はうまくいけば夏を越せるのではないかと思っていただけに、主治医から「春」という言葉を聞いた時はビックリしました。
でも、それはないだろうと、まだ、どこか楽観的に考えている自分がいました。
 その後、12時半にホスピスの栄光病院に行き、先生と面談。明日午前中の入院に備えていままでの経過を聞かれました。

 夕方、帰宅し、妻の様子を聞くと「今日は全然ご飯を食べようとしないし、あれだけ厳重に飲んでいた薬も飲まない」と母が心配そうに言う。
 ここ数日、食事をさせるのが一苦労でした。
以前は雑炊やうどんを作って食べさせていたのですが、それも1杯が半分、3分の1、一口二口と減っていき、それも1日なんとか2回食べていたのが、この頃は1日1食口にするのがやっとという状態でした。
味付けが違うのか、母ではなく私が作れば少し口にするという感じです。

 しかし、この日は朝から食べたくないと言って何も口にしていません。
お腹はグーと鳴いているのに、「要らない」と言います。
それでもなんとか卵を溶いて、スプーンで口に1口流し込んでやりました。
食べる力がないのです。それがやっとでした。

「薬は飲まなくていいのか」
「うん」
「どうして? もう飲む時間ではないか」
「痛くないから」

 薬とはモルヒネのことです。経口薬としてMSコンチンを、それに座薬を併用していました。
もはやMSコンチンだけでは痛みを抑えられなくなっていたからです。
 当初、妻はモルヒネの量が増えるのを嫌って、少し調子がよければ服用する時間を伸ばすなど自分で多少調整していました。
特に今年1月に気功を当ててもらうようになってから、気功の先生の「できればモルヒネの服用は止めて下さい。治りが遅くなりますから」という言葉もあり、できるだけモルヒネの服用を我慢するようになりました。
でも、その結果、ベッドから起き上がれなくなり、鈍痛のような痛みに悩まされ続けました。

 私も、我慢できるのならモルヒネの量は減らした方がいいだろうという考えには賛成でした。
しかし、飲まないことで痛みが増し、苦しむのなら、飲んだ方がいい、痛みさえ緩和されれば日常生活ができるのだからと、無理に我慢せずモルヒネを飲むよう勧めました。
それと同時に、いかに最近モルヒネが進歩し、緩和医療に貢献しているかという新聞記事も見せました。
客観的資料を見せることにより、薬に対する不安感を取り去ろうとしたのです。

 ガン患者にとって痛みの緩和が最大の治療だと思います。
痛みさえなければかなりの部分、日常生活が送れるからです。
私は妻が膵臓ガンと分かった時、最初にしたことはインターネットで治療法を調べたことです。

調べれば調べるほど、結果は希望を無惨に打ち砕くものでした。
膵臓以外は治ったという報告例が数多くあるのに、膵臓だけなかったのです。
AHCC首都圏普及会にもメールで問い合わせましたが、結果は「残念ながら」というものでした。生存期間が短いので症例が取りにくいからで、効かないということではないというのがせめてもの慰めの言葉でした。
昨年1年間は本当に仕事どころではありませんでした。
もしかすると本人以上に私の方がうろたえ、落ち込んでいたかも分かりません。

 モルヒネの中でもMSコンチンは常習性などの副作用が比較的少ない、いい薬であり、なにはともあれ痛みを緩和しよう。痛い、痛いと言っていては治る病気も治らないからと言い聞かせ、本人も「この痛みさえなければ、どんなに楽か」と、モルヒネをきちんと飲むようになっていました。

 それなのに、この日は「痛くないから」と言って、全く薬を服用してないのです。
これは明らかに異常で、もはや痛みを感じなくなっていると思いました。
言葉もチンプンカンプンで「惚けている」のではないかと思った程です。

 いつもは妻がベッドに、腰痛でベッドが苦手な私は、ベッドの横に布団を敷いて寝ていたのですが、その夜は不安が先立ち、ベッドで妻の体をさすりながら起きていました。
12時頃(いつもなら痛み止めの薬を飲む時間)に薬を飲ませようと考えていたからです。
それと水分の補給です。食事はしなくても水分だけは補給しなければ脱水症状になるからです。

 3時頃、寝返りを打ったので「水を飲むか」と聞くと「飲みたい」とはっきりした口調で答えました。
そこで栄養補給も考えてパイロゲンを1杯飲ませました。
喉が渇いていたのでしょう、「もっと飲みたい」と催促したのでもう一杯水を飲ませ、コップを戻しに行った時でした。

「うーん、うーん」と言葉にならない声で呼ぶのを聞き、慌てて戻ると、口に手を当てティッシュを取ろうとしていました。
私が差し出すのも間に合わず、嘔吐しました。
それはまるでコカコーラのようでした。
 以前、妻が「コカコーラのようなものを戻した」と言ったことがありましたが、それがどす黒い血だったということを、私は不覚にもこの時初めて気が付きました。

 その後、トイレに行きたいと言うので(実は言葉がはっきりせず、トイレに行きたいと言っていると分かるまでに何度も聞き直さなければなりませんでした)、抱えるようにして連れていきました。
そう、今思い起こせば、それはまるで酔っぱらいの介抱と同じでした。

 吐血直後から激しい痛みを訴え、呂律の回らない口でモルヒネを要求しました。
MSコンチンを飲ませましたが(実は後で分かったことですが、動転した私が飲ませたのは胃薬でした)、座薬もと言うので、座薬を入れた直後です。今度は下血です。
 吐血・下血で少し楽になったのか、それとも意識が薄れたのか、その後、今度は静かに眠りに就いてくれました。

 翌朝、車で病院に連れていく予定でしたが、これは一刻も早く入院させなければと、8時になるのを待ちかねるようにして病院に連絡を入れ、救急車で入院させました。

 私にとって残念なのは妻がこの夜のことを覚えていないことです。
入院2日目に本人の記憶を確かめましたが、一切覚えていないのです。
救急車が来るまでに体を拭き、着替えさせてやったことも、まったく記憶にありませんでした。
私は愛されてなかったのではないか・・・。
いまでもこの時のことが心に引っかかっています。

 激しい貧血症状を起こしており、輸血を3パックしました。ちょっとした大手術並みの輸血量で、「よくこの状態で自宅に居れましたね」と先生から言われました。
通常、一度にこれだけの血液が失われていると意識がなくなっているそうです。
吐血も鮮血でなかったように、徐々に出血し、それが溜まったのを吐下血したようです。逆に言えば、だから助かったのでした。
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by kurino30 | 2004-11-29 07:59 | Trackback | Comments(0)
ガンと健康食品
 ドクターから「末期」と聞かされはしましたが、それでもまだ私は楽観的でした。それにはいくつかの理由(と呼べるかどうか)がありました。
 1つはそれより以前から健康食品を飲ませていたことと、入院してすぐアガリクスとAHCCを常飲させていたからでした。
そして抗ガン剤の24時間投与もプラスに働くと考えていました。

 以前から飲ませていた健康食品とは「日本ヤマニンジン」です。
これはたまたま「わかさ」という雑誌社の依頼で取材をしたのがきっかけで私が飲み始めたもので、妻にも飲ませていました。

 「日本ヤマニンジン」は朝鮮人参に似ていることから付けられた名前で、日本にしか存在しない珍しい薬草です。自生地は九州の霧島山系、四国剣山系、紀州半島というごく限られた地域です。霧島地方では江戸時代から「神の草」と呼ばれてきたようですが、薬効が確かめられた昭和になってからで、手足の血行障害が原因の突発性脱疽で足指の切断を宣告された高木孝一さんが、日本ヤマニンジンの根を煎じて飲んだところ回復したため、成分研究を愛媛大学医学部の奥田拓道教授に依頼したのでした。その結果、この薬草には血小板の凝集を抑制する作用があることが分かりました。

 ここでは詳細な説明は省きますが、日本ヤマニンジンには血流をよくする作用があるということです。その後の研究でインシュリンの抹消での働きを高める作用や、発ガンプロモーターを抑制するとともに、ガン細胞を攻撃するナチュラルキラー細胞の増加・活性化作用があることも分かりました。つまり高血圧の防止や糖尿病、ガンにも効果があるということです。

 2年前、妻は市内の糖尿病専門病院、よくマスコミにも取り上げられている病院ですが、そこで糖尿病だと診断され、食事療法を勧められました。福大病院に入院した時、ドクターから「糖尿病の専門医なのにどうして膵臓を疑わなかったのか」と言われました。もし、その時点で膵臓ガンの検査をしていたら手術が可能だったということです。

 アガリクスは新聞の広告欄でよく目にしていましたが、私が求めたのは最上のものです。その時思い出したのが長崎県工業技術センターの長田純夫所長(現、福大教授)の話で、お会いした時に、アガリクス栽培している熊本の会社を長崎に誘致したと話していた内容です。その時は左程興味もなく、聞き流していたのでしたが、早速、長田教授に連絡を取ると、日本バイオという人吉にある会社で、アガリクスにはいろいろあるが、そこのは研究論文もしっかりしているし、お勧めだということでした。すぐに注文し、以来毎日病院に届けました。

 AHCCは知人から教えてもらいました。インターネットで検索すると全国で医師がガン治療に使用しており、使用病院名も載っていました。アガリクスと同じようにキノコ多糖類を中心にしたものです。なぜ医師がガン治療に使用しているかというと、工場で成分管理の下に製造されている(化学系ではない)ので、きちんとしたデータが取れるからです。その結果、ガン治療に効果があると認められたわけです。

 上記3種類は妻が自力で服用できる間ずっと飲ませました。それはガンに効くということもそうですが、放射線治療や抗ガン剤による副作用を緩和した事例がいくつも報告されていたからです。
 実際、放射線治療でも髪が抜け落ちることはなかったし、抗ガン剤の副作用と思われるものもそれほど激しいものはありませんでした。一般的に膵臓ガンは痛みが非常に激しいと聞いていました。悲鳴を上げ続ける、と。

 でも、妻の場合、こんなに痛むのなら死んだ方がまし、というような痛みはなかったと感じています。それもこれら健康食品を当初から飲ませていたからではないかと思っています。
 ただ、健康食品の難点は薬効作用があると言われているもの程価格が高いことです。だが日本バイオのアガリクスは良心的な価格でした。「飲み続けられるために価格を低く抑える」。それが企業理念だ、というようなことがたしか書いてありました。この点も気に入った理由です。

 アガリクスにしろAHCCにしろ様々な末期ガンが治った例を報告していますが、いずれも膵臓ガンだけは報告がありません。
その点が私の不安でした。
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by kurino30 | 2004-11-26 23:42 | Trackback | Comments(0)
あと2年あれば・・・。
 妻の旅立ちに際しては実に多くの人達にお見送りを頂き感謝しています。
また手紙やメールを何人の方からも頂きました。
それで分かったことがいくつかありました。
一つはガンと共存されている方が意外に多かったことです。
もう一つは私の知らない妻の姿が見られたことです。

通夜、告別式を通して400人の方がお別れに来てくださいました。
この人数の多さにまずビックリしました。
大半が妻と関係がある人達で、しかも、若い人達があんなにも涙してくれるのを見た時、本当に多くの人達に慕われていたのだなと我が妻ながら改めて感心しました。
妻は博多大丸に22年在籍しました。
最初は販売を、そして最後の10年は人財開発部で課長として教育を担当していました。
その「教え子」達がお別れに来てくれたのでした。

 私達には子供がいません。
だからというわけではありませんが、夫婦の会話は比較的多い方だと思っていました。
でも、いざ妻が居なくなり、芳名帳のお名前を拝見したり、寄せられた手紙を読んでみて、いかに私が妻のことを知らなかったのかを思い知らされました。

 妻が異常を訴えたのは2001年の正月でした。
背中の辺りが痛いと言い、正月3が日はまさに寝正月です。
でも、その時は疲れからくる腰痛ぐらいにしか考えていませんでした。
元々我慢強いタイプでしたが、余程痛かったのでしょう、正月が明けるとすぐ病院に行き検査をしてもらいました。
大きな病院でしたが、検査で異常は発見されませんでした。
それでも、本人がおかしいと思い、別の所で再検査をしてもらった結果、膵臓に腫瘍が見つかりました。

そして福大病院に入院したのが3月。
再び数週間かけて再検査です。
ドクターから告げられた言葉は「末期ガン」。
「手術は非常に難しいので勧められない」ということでした。

「私達が言う”末期”と世間一般によく言われる”末期”とは違います。末期だと言うとすぐホスピスに走ったりする人がいますが、そういうことはしないで下さい」
「治療は放射線を主体に行います。抗ガン剤も併用したいので、使用を認めて欲しい」
「認めて欲しい」とドクターが言ったのは、抗ガン剤は副作用が激しいから嫌がる人が多いためでしょう。

抗ガン剤と聞いて、私が考えたのは夜間投与でした。
抗ガン剤の夜間投与で効果を上げている例をTVで見たことがあったからです。
それと同時に看護婦の勤務態勢の問題があり、24時間治療を実施できる病院が極限られていることも知識としてありました。

「ちょっと生活は規制されますが、24時間点滴を行います」
そう言われた時、このドクターは抗ガン剤の夜間投与のことを知っているなと思いました。大学病院では勤務態勢上、それができないので、24時間点滴をするのだろう、と。
それで私は抗ガン剤治療に了承しました。

 でも、最後にどうしても知っておかなければならないことがありました。
それは余命の問題です。

「余命はどれくらいですか」
私は漠然と、あと2年もすればガン治療は飛躍的に進むと考えていましたから、余命2年なら助かる確率があると思ったのです。
「10カ月から持って1年です。近くに血管があるのでそこに浸潤すればもっと速くなるでしょう」

職業柄ということは分かります。
でも、この時ほど医師の無情を恨んだことはありません。
上を向いて必死に耐えました。
下を向くと涙がこぼれ落ちるから。
もう何も言えなかった。
言葉を発すると嗚咽が出そうだから。
ひたすら奥歯を噛み締めて耐えました。
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by kurino30 | 2004-11-25 10:00 | Trackback | Comments(0)
不思議な安らぎの中に
 先週から病室が私の自宅であり、事務所に変わりました。
以後、ほぼ24時間この部屋で過ごしています。
ベッドでは妻が徐々に旅立ちの準備をしています。

 病名が膵臓ガンと分かったのは1年前の4月です。
最初に入院したのは福大病院。そして昨年12月にはガンセンターへ移りました。
そして先週から栄光病院に入院しました。

 昨年12月になって初めて妻に病名をはっきり知らせました。
それは残りの時間が短くなったからです。
最期をどのように過ごすかは私達にとって重要な問題でした。
結局、妻と私は、最後に入院する病院をホスピスと決めました。
できるだけ痛みが緩和され、人間的に扱われ、家族と時間を共有できること。
それが条件だったからです。

 最初の入院以来、多くの人が私を励ましてくれました。
ガンに効くAHCCというきのこ系健康食品を非常に安く提供してくれ、週に一度電話で励ましてくれた友人、またアガリスクを何度もくれたトーマツベンチャーサポートの新原さん(現、新原公認会計士事務所)、心配してEM飲料を何度もいただいた海・話の長沼さん、ありがとう。
会うたびに励ましてくれた加藤特許事務所の加藤さん、ありがとう。
そしてメールで励ましてくれた学生時代の友人達ありがとう。
最初から励まし、リエゾンの新年会、4月例会を快く引き受けてくれた岳将の岳さん、ありがとう。

 いよいよ時間が少なくなったみたいです。
いま、私はただ1人の人だけを見詰め続け、すべての時間を彼女のために費やしています。
 多くの方が見舞いに訪れてくれましたが、それも昨日からお断りしています。
そして静かで、穏やかな、不思議な安らぎの時間を過ごしています。

                     病室にて 2002/04/12
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by kurino30 | 2004-11-24 15:12 | Trackback | Comments(0)
妻への挽歌
悲しい言葉が 一杯詰まった 詩集を 
1冊持って 夜汽車に乗れば 
涙が 溢れてくるでしょうか
たった一人で 乗った 自分が 
悲しくて 泣くのでしょうか
それとも 置いてきた女が 哀れで
泣けるのでしょうか

バケツ1杯ほども 泣けば 
悲しい過去に さよならが できるでしょうか
汽笛も 悲しく 泣いてくれるでしょうか

どこに行けば 見つかりますか
思いっ切り 泣ける場所は 
どこに行けば 見つかりますか
溢れる涙を 拭う場所が

タライ一杯ほども 泣いた時
明るい明日が 来るのでしょうか
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by kurino30 | 2004-11-24 10:51 | Trackback | Comments(0)
衣替えしました。
 「栗野的雑感」は「goo」に移転しました。
 今後はgooの「栗野的雑感」
 をご覧下さい。

 今後は新たに「栗野的通信」に衣替えして更新します。
癌で1人旅立った妻への挽歌、妻に許しを請う日々です。
願わくば誰もがこのような思いをせずに済む日が来ることを願っています。
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by kurino30 | 2004-11-13 12:08 | Trackback | Comments(0)