病気と医療について考える~栗野的通信
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ガンで旅だった妻への挽歌と、病気と医療についての考察。
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もしも空が飛べたら。
 もしも空が飛べたら・・・。
幾度そう思ったかもしれません。
いつもいつも私は夕方、車を飛ばして病院へ急いでいました。
最初の頃は福岡大学病院へ、それから九州ガンセンターに。
急いでくれ、道を空けてくれ、と心の中で叫びながら、1分でも早く病院に着けるように急いでいました。
そんなに急がなくても、早く仕事場を出れば済むことなのですが、いつもギリギリに出ては急いでいました。

福大病院の頃は春の気候がいい時分でしたが、ガンセンターの頃は雪がちらつく寒い季節になっていました。
日は早く暮れ、寒々しい風景の中をひたすら車を走らせたものです。
もし、空を飛べる車があれば、渋滞にも巻き込まれずスイスイと行けるのにと思いながら。
よく事故を起こさなかったものです。

 病室に行ってもそんなに長い時間いるわけでもありません。
共同部屋ということもありますが、昔から見舞いは苦手でした。
それでも1日1回は顔を出すようにしていました。
時にはベッドで一緒に夕食を摂ったり、妻のベッドに寝ころんでTVを見たり。
たまに1日2回顔を出すと非常にうれしそうな顔をしてくれました。
逆に顔を出せなかった日の翌日は、何もなかった風を装いながらも、「昨日は忙しかったんだろう」とそれとなく聞いてきます。
そんな時は寂しい思いをさせたと反省しきりです。

 時々そっと妻が言いました。
○○さんは一度も旦那さんが見舞いに来ないのよ。
日曜日ぐらい来てあげればいいのに。
娘さんは時々来ているけど。

 ご主人が来ないのは単身赴任か何かかも分からず、
別に仲が悪いわけではないのかもしれません。
でも、妻のその言葉に、やはり毎日見舞いに来て欲しいのだなと感じました。

 いま思えば、仕事を休んででも、もっと側にいてやるべきでした。
「仕事をしないといけないから」
そう言って、私は仕事に逃げていました。
「ちゃんと仕事をしてね」
妻は私を気遣ってくれました。

 なんとか年は越せそう。
でも、次の年は・・・。
これが最後の正月、とは思いたくない。
しかし、現実を直視すれば・・・。
病室を出て、真っ暗な冬の夜の中に立つ時、とてつもなくやりきれない気持ちに襲われます。
この世に神も仏もないのか・・・。
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by kurino30 | 2005-01-27 18:26 | Trackback | Comments(0)
奇跡を信じて。

 私は運命論者でも宿命論者でもありません。
それでも「もしかしたら」と思うことが、時にあります。
友人から気功の先生を紹介された時でした。

 個人的には太極拳や気功を健康のために物真似程度にやったことはあります。
でも、それでガンが治るなどとは思ったことがありません。
だから、友人が気功の先生がいると話してくれた時も、紹介して欲しいとは言いませんでしたし、信じる気にもなれませんでした。
それから数カ月後に同じ友人から再び気功の話を聞いた数日後のことでした。
別の人から同じように気功の先生を紹介しようかと言われました。

 私は何事に付け3度言われると行動を起こすようにしています。
同じ友人から時期を置いて2度、そして別の人から勧められたので計3度勧められたことになります。
これもなにかの縁かもしれない。
そう思いました。
そして妻に気功のことを話しました。
 何事に付け本人が信じなければ効果はないと思っています。
だから、妻がほんの少しでも躊躇したり首を傾げたら止めるつもりでした。
でも、その時、妻は行ってみようか、と言ったのです。

 1月中旬のある日。その日は雨が降ったり止んだりしていました。
私は妻を助手席に乗せ、自宅を朝8時に出て長崎に向かいました。
妻はずっと眠ったままでした。
 ところが、長崎自動車道に入り金立サービスエリアの少し手前で、行く手にきれいな虹を見ました。
虹は高速道路をまたぐような形で、きれいな半円形を描いていました。
大抵、虹はどこかが切れているものです。
ところが、この時の虹はまるで映画の中に出てくるような虹でした。
7色を数えられる程、色は鮮やかでしたし、なにより端から端までくっきりと見えたのです。
 こんなきれいな虹を見たのは子供の頃の記憶にもありません。
その虹の中をくぐるように私達は進んだのです。

 奇跡が起こるかもしれない--。
そんな気になりましたし、そう思いもしました。
そして、そうなることを願いました。
「幸先いいよ」
私は妻の手を握りそう言いました。
それからサービスエリアで1杯のうどんを分け合って食べました。
年が明けてから食欲がなく、ほとんど食事ができなくなっていた妻ですが、この時は「おいしい」と言ってうどんを3分の1程食べました。

 気功治療を終えた後、先生が「思ったより素直だった。必ず治ります」と言ってくれました。
そして昼食に玉子丼をご馳走になりましたが、この時も妻は3分の2程食べたのです。
食欲があるというのは元気な証拠です。
来てよかった。
正直、そう思いました。

 そして、帰り道、また同じ場所で同じように虹を見たのです。
1日に2度も、同じ場所で虹を見たのです。
祝福されている。
本当にそう思いました。

 虹が出ることについて科学的な説明は付きます。
でも、それを私達が見る確率は低くなります。
その時間にそこを通らなければ見えなかったでしょう。
それも逆方向に走っていたら、太陽との位置関係から言って見えてなかったはずです。
しかも、帰りも見る確率はもっと少なくなります。
 普段は奇跡など信じない私ですが、この時ばかりは本当に奇跡が起こるかもしれないと思いました。

 すべてがうまく行っている。
そう思い、2人で喜びました。

ところが、翌日から妻の状態に変化が出ました。
ぎっくり腰のようになり、腰が痛み出したのです。
車での遠出が応えたようです。
私が掛かり付けの整骨院に連れて行きましたが、マッサージもあまり出来ないし、ほとんど治療らしいことは出来なかったし、少しでも体に負担がかかると「痛い、痛い」と泣きました。

 この日以来、妻に腰の痛みが加わりました。
そして「痛い、痛い」と泣くようになったのです。
いままでほとんど弱音を吐いたことがない妻が子供のように泣くようになりました。
こんな弱い妻の姿を見たのは初めてです。
まるで思考も停止したように、痛がり泣く姿に正直腹立たしささえ覚えたほどです。

 とうとう妻の腰は変形してしまいました。
老婆のように曲がったままで延びなくなったのです。

 もし、気功治療に長崎まで連れて行かなかったら・・・。
もしかしたら、私が妻の寿命を少し縮めたのではないか・・・。
少なくとも余計な痛みを感じさせるようにしてしまったのは事実です。
いまでもそのことを悔いています。
同じ場所で1日に2度も虹を見る偶然に出合ったというのに、
奇跡は起こらなかった・・・。
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by kurino30 | 2005-01-24 22:34 | Trackback | Comments(0)
それぞれの想い(2)
 主人が、持病の気管支拡張症で通院している大学病院での定期検査の折りに肝臓に腫瘍が発覚。中期の癌で2カ所あり、ひとつは血管に食い込んでいるとの事でした。
 C型肝炎があるので発症は普通の人の7倍くらいだそうですが、疲労度が高い以外には自覚症状は全く無く、この定期検査が幸いしました。
 持病の気管支拡張症は、抗生剤の効かない緑膿菌がいます。
その為に3年ほど通院している大学病院で、C型肝炎もあるので、飲んでいる薬の影響を知るための血液検査や定期検査(腹部エコー)を受けていたが故に、癌(中期と言われました)を発見することができたと言えるので(自覚症状は皆無でした。疲労度は高かったのですが、仕事と昨年の経営の事故のストレスの為だと思っていました)何が幸いするか分かりませんね。
 現在は術後の加療として肝臓に直接注入する抗ガン剤の処置(計8回)に通院しており、5月23日に加療後の検査をして、その後の計画を相談することになっています。
 身体の他の部分に抗ガン剤が廻らないので、副作用が無いのは幸いです。


 実は、私の家内も97年の12月、子宮癌と診断されました。
発見が早く、翌年の1月8日に入院、12日に手術をし、子宮、卵巣、卵管、リンパ節を切除、何とか現在に至っていますが、癌と分かった時は、年の瀬も押し詰まった24日の日でした。
 癌の知識がなく、もう死ぬかと思いながらクリスマス、正月と過ごしたが、お正月には、子供、孫、父親が、気付かないように振る舞う妻の姿がとても印象深かった。
 その後、放射線治療をしましたが、いまだに膀胱の機能がおかしいみたいです。
今年の12月で五年になります。五年経てば、医者はもう大丈夫だと言ってくれましたので、今は、家内と日々楽しく過ごしています。


 患者は肉体的・精神的痛み、苦痛を持っており、それが終末ともなれば、耐えられない肉体的苦痛(悪寒)、生きたいという強烈な心の欲求、真実が解らないため何かわからない巨大なのしかかる精神的不安、疑心暗鬼、猜疑心、崩れ行く患者の自尊心、人間としての尊厳、などで苦しむのが患者の日常生活になります。
このときこそ、医療が必要になってくるのだと思います。
 私がハダサ医療機関のホスピスを訪問した時、医療、人間、哲学などの専門教育を受けた博士号、修士号を持った看護婦と現場の掃除婦、食事のおばちゃん、医師、患者、家族などが一体となった協力的な暖かいエネルギーの雰囲気がホスピスに充満していた事が印象的でした。
 治療は単なる技術の問題ですが、医療は多くの専門家の知恵と愛情のチームワークが不可欠だと感じました。
 患者は自分の家で自分の家族の見守られる中で逝くのが理想的ですが、その過程で専門家の力を必要なときもままあります。
 これからの医療は、ホスピスに存在するだけでなく、これからの病院にも医療制度にも必要なのではないかと思います。
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by kurino30 | 2005-01-17 08:07 | Trackback | Comments(1)
それぞれの想い(1)
 私がいまブログに載せている内容は基本的には2年前に「栗野的通信」と題して配信したものをベースにしています。
非常に個人的な内容のものを配信することに、当初、私自身、迷いがありました。
でも、それを敢えて配信したのは、妻の病気のことをなぜか会社が社員に知らせずにいたため、なにも知らずにいた同僚達が非常に多かったためです。

 いよいよ残り数日になった時に、堪らず妻の仲がよかった同僚数人に私が知らせると、それから多くの人達が今度は病室に押しかけてきました。
その時私は正直、同じ来てくれるなら、せめて妻が話ができる時に来て欲しかったと思いました。
でも、彼らは妻が病気で入院していることすら知らされてなかったのです。

 多くの人が最期の時に「何も知らなかった。知っていたらもっと早く見舞いに来ていたのに」とか「どうして知らせてくれなかったの」と言いました。
だから、彼、彼女たちに状況を知ってもらうためにも書かなければいけないと思い書き始めました。

 だが、配信を始めると「女々しい」「そんなメルマガを配信するのは止めろ」というお叱りのメールも来ました。
その一方で同じような経験をされたからの共感も寄せられました。
私自身、途中で何度も止めようかと思いました。

 でも、同じ思いをされている方がいるのではないか。
そういう人達にとって情報や思いを共有することが、ある種の支えになるのではないか、私自身そうだったから、そう思って書き綴ってきました。
その結果、多くの人が私と同じような経験をされたことも知りました。
なかには身内の病気がきっかけでホスピス病院まで作られた人もいます。

 ありがたいことに、私の私的な体験にメッセージをお寄せていただいた方が何人もいます。
私よりはるかに悲しみが深い方、いま現在病気と闘っておられる方、そういう人を身内に抱えておられる方・・・。
そういうメールに私自身どれほど慰められたことでしょう。
 それぞれにそれぞれの想いがあります。
いただいたメールの中からいくつかを紹介していきたいと思います。


 私もかって両親を癌で失っています。
昔の事ゆえペインコントロ-ルも十分ではなく、随分両親の苦しむ姿が
未だに脳裏に鮮明にやきついております。
父が薄れいく意識の中で最後に残した言葉は「泣かんでいい、また逢える」。
私は宗教は持ちませんがこの言葉には本当にすくわれました。
ちなみに父も膵臓癌でした。


 私の母は8年前にガンで他界いたしました。
膵臓ガンの手術をしてから約1年半後、
亡くなる4ヶ月ほど前に病院へ再入院いたしました。
この時いよいよ死期が迫ってきたなあという感じを受けました。

 手術後退院してからというもの元気で過ごしており、ガンは完全に消えたのかなと思うほどでした。
しかし、やはり、お医者様の言われたとおりの期間しか生きられませんでした。
私は男3人兄弟の3男です。兄弟は実家に近いために入院した母の見舞いはできるだけ行くようにしました。

病室に泊まり、母が眠る隣の空きベッドで私は眠り、朝起きれば仕事に向かう日が何日もありました。親父、他の兄弟もそれぞれ同じようなことをしました。
 息を引き取った時は、私が泊まりの日でした。
寝息が聞こえていました。
しかし、何の前触れもなく息が聞こえなくなりました。
一瞬何が起こったのか不思議でした。
現実が目の前にありました。
母の臨終だということがわかりました。
まだ悲しみは全然湧きませんでした。
悲しみは母を家に連れて帰り、布団に寝かせ通夜、葬儀の準備が終わる頃にやってきました。
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by kurino30 | 2005-01-15 00:35 | Trackback | Comments(1)