病気と医療について考える~栗野的通信
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ガンで旅だった妻への挽歌と、病気と医療についての考察。
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別人に思われる。
 何分大人になって初めての手術ということもあり、何もかもが興味津々でしたが、ただ一つ残念だったのは30歳の時から生やしているヒゲを剃り落としたことです。
「ごめんなさい。言い忘れたんですが、手術室に入る前にヒゲも剃ってもらうことになっているんです」
 やってきたナースが気の毒そうな顔をしてこう通告しました。
「えっ、ヒゲも剃るの。ヒゲは関係ないんじゃないの」
「ええ、そう思うんですけど、手術室に入る時には腕時計や指輪もはずしてもらっていますから」

 何となく釈然としませんでした。というのも、先ほど剃られた下の毛はメスを入れる側だけで、反対側の毛は剃られてなかったからです。右と左がアンバランスで、なんとなく中途半端です。剃るならそちらの方を全部きちんと剃るべきではないか。そう思いました。しかし、手術室に雑菌を持ち込ませないということなのだろうと思い、それ以上抗わず、洗面場に行き、思い切って「えい、やっ」とヒゲを剃りました。
ところが、長いこと剃ったことがなかったので、カミソリで当たると肌がカミソリ負けを起こしそうで、ヒリヒリ。ヒゲを剃る悲しさより痛みで涙が出そうになりました。

 剃り終わって鏡を見ると、そこにいたのは別人でした。
(なんとも間が抜けた顔だな・・・)
とても自分の顔とは思えなかったし、こんな顔は他人には見せられない。見舞いを断っていてよかった、と思ったものです。
 自分で見まがうほどですから他人が見まがうのは当たり前で、主治医が病室に来た時は私の名前を二度も呼びました。私が返事をしているのにベッドを間違えたのかという顔をして立っていました。
私が「ヒゲまで剃らされましたよ」と言って初めて納得したみたいで、「ああ、それでですね。なにか最初見た時と印象が違うなと思っていました」と笑っていました。

 続いてやってきた薬剤師も妙な顔をしていたので「ヒゲも剃れといわれたよ」と言うと、「そうでしょ。前と印象が違いますから別人かと思いました」だって。
「間が抜けた顔になったでしょ」
「ヒゲがない方が若く見えますよ」
 いくら褒められても自分で見慣れないこともあり、あまり好きにはなれませんでした。
退院までには少し生えるだろう。
そう思うのがやっとでした。
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# by kurino30 | 2006-02-01 00:28 | Trackback | Comments(0)
術前に剃られる。
 手術は子供の頃、まだ小学校3年生の頃に虫垂炎の手術をしただけだから、今回の手術は二度目、およそ40年ぶりということになる。検査入院以外したことがなかったので、何もかもが初めての経験だった。

 面白かったのは手術前の処置だ。手術箇所が下腹部ということもあり陰毛を剃られることは分かっていたが、聞くところによれば地域というか病院によってやり方が異なるようだ。
 以前に私が聞いた話では、誰が剃ったか分からないようにして剃り、剃った後も人物の特定をさせないというものだった。ところが、私が入院した病院では実にあっけらかんとしていた。

 まず、手術前日の夕刻にナースがやってきて、これから体毛を剃りますと告げられた。剃る箇所は陰毛と、局部麻酔をかける背中の産毛とのこと。どうも当の本人が剃るようだが、聞いていた話のように患者と作業者との間をカーテンで仕切る風もない。つまり作業が丸見えの状態で剃られるわけだ。

 困ったのは作業中のこちらの態度である。黙ったままジッとしているのも変なので、ウォークマンのイヤホンを耳に当て語学のカセットテープを回し、テキストに目をやっていた。ところが、毛を剃りながらナースが話しかけてくるのだ。

「以前はカミソリで剃っていたんですが、いまは電気(バリカン)なんですよ。カミソリだと却って肌を傷つけることがあるからですね」
「お仕事は何をされているんですか」
 話しかけられても最初は無視していたが、とうとう返事せざるを得なくなり、以後、イヤホンをはずし話に付き合うことにした。
「わー、そうなんですか。私なんかこの世界しか知らないから興味ありますね」

 ごく普通の会話をごく普通に交わしながら陰毛はどんどん剃られていく。
何とも不思議な光景である。
そのうちあることに気づいた。
そうなのだ。この何気ない会話こそが重要なのだ、と。

 互いに沈黙したまま黙々と作業を続けると、中には不心得者がいて、ふとあらぬ妄想をするかもしれない。仮に妄想しないにしても、沈黙したままの作業はその場の空気を緊張させる。
そうしたことを防ぐために何気なく普通の会話を交わすことで、互いの緊張を取り去り、点滴をしたり血圧を測るのと同じような作業にしているのである。
「はい、終わりました。この後シャワーを浴びてください」という声で、何事もなく作業は終了した。
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# by kurino30 | 2006-01-30 09:45 | Trackback | Comments(0)
患者と医師の信頼感
 名前を呼ばれて診察室に入った瞬間、「しまった」と思った。
紹介状は外科部長宛に書いてもらったが、その日は外科部長の診療日でないことが事前に分かっていたので、他の担当医でもいいと伝えていた。だから誰でも文句はないのだが、目の前の医師はあまりに若く見えた。小柄なこともあり、どうかすると30そこそこ、いっていても30代前半だった。
大丈夫だろうか、という不安が頭を過ぎった。

 若い医師は私の不安な表情を読み取ったはずだが、顔色一つ変えず、にこやかな笑顔を浮かべていた。自己紹介をした後、病名について説明し、治療方法、手術方法は複数あり、いずれの方法にもメリット、デメリットがあります、と説明を続けた。
 非常に丁寧な説明の仕方と、終始笑顔を絶やさず、優しく語りかける若い医師の姿に、当初感じた私の不安は次第に消えていった。

「先生、一つお聞きしたいのですが、排便はどうなりますか。妻が生きている時はよかったのですが、いまは独り身なものですから、下の世話をしてもらうのがどうも……」
「それは誰でもそうでしょうね。ただ、手術の前に浣腸をしますし、術後は尿道に管を入れていますから心配ありません。翌日はおかゆですが食事もしてもらいますから。トイレにもご自分で行けます。ただ、手術をした後ですからあまり踏ん張ると傷口が開くことがあるので、それはできませんけど」
「いや、それを聞いて安心しました。それならメスによる開腹手術でお願いします」
「分かりました。その場合は私が執刀しますから、私が主治医ということになりますが、それでいいですか」
「はい、お願いします」

 鼠径ヘルニアの手術には従来通りのメスによる方法と腹腔鏡手術がある。腹腔鏡手術は術後の回復が早いというメリットがあったので、腹腔鏡手術にしたいと考えていた。しかし、従来手術に比べ手術費が高いこと、局部麻酔ではなく全身麻酔なので麻酔による体の負担があることが分かった。さらに従来手術でも術後2日目から動けることが分かり、排便は自分の手でできることが分かったので、躊躇なくメスによる開腹手術を選んだ。もちろん、最後の決定要因は目の前に座っている若い医師に対する信頼感だった。

 患者と医師の信頼感は情報開示以外にない。病名、手術方法等の説明をきちんとしてくれるかどうか。しかも、その際他の選択肢があることも教えてくれかどうかだ。さらに、それぞれの方法のメリット、デメリット、リスク等を隠さず教えてくれるかどうかだろう。流行りの言葉で言えばインフォームドコンセントがどの程度行われるか否かにかかっているということだ。
 若い医師の笑顔を絶やさない真摯な態度、丁寧な説明に、私の不安は完全に拭い去られていた。なかでも信頼感を増したのは医師の次の言葉だった。

「これは私からのお願いですが、術後1カ月、3カ月、半年、1年まで経過を見たいので診察に来てもらえないでしょうか」
 メンテナンスまできちんとしたいという。1年後まで経過を見るのは病院の方針ではなく、本人のやり方らしいと知ればなおのこと当医師に対する信頼が湧いてきた。
「先生、お願いします」
 最後には自然に頭を下げ、私はそうお願いしていた。
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# by kurino30 | 2006-01-28 09:45 | Trackback | Comments(0)
入院先で悩む
 半年程前から下腹部に卵形の膨らみが目立つようになった。別に痛みもないのでさほど気にも留めなかったのだが、12月に入って卵形の膨らみが大きくなった。大きくなっただけでなくウィンナーのように長い形状に変わってきた。ちょうどその頃から下腹部に違和感を覚えると同時に鈍痛のようなものを感じだした。

 脱腸ではないかと思いインターネットで検索すると、病名を鼠径ヘルニアと呼ぶことが分かった。子供に多いと思っていたが、実はそうではなく40歳以上の大人に多い病気で、加齢と共に筋肉が弱ってくることから起こるらしい。
 腹膜(腹の一番内側の膜)が下腹部の筋肉の隙間から袋状に飛び出し、その中に腸・脂肪・膀胱などが脱出する病気で、出たり引っ込んだりしている間はいいが、出っぱなしで、横になっても引っ込まなくなると、出ている腸の部分に血流障害が起き、腐ることがある。その場合は緊急手術が必要だ。

 そこまで分かった時、もう手術をすることに腹を決めた。
問題は病院をどこにするかだ。暮れも押し迫った27日だったので、年明け早々に入院・手術をしたかったが、診断してもらったクリニックは手術装置がなかったので別の病院へ紹介状を書いてもらうことにした。

 「どこか希望がありますか」。そう聞かれたが入院希望先などはない。第一、鼠径ヘルニアの手術は何科でするのかという知識さえない。
「上手なところならどこでもいいです」
 手術に際して一番知りたいのは、やはりこの点である。
「誰でも、というと変ですが、鼠径ヘルニアの手術は盲腸の手術程度ですから難しい手術でもなんでもありません。外科医なら誰でもできる手術です」
 そう言われて少し不安が消えた。
自宅から比較的近い国立病院のほかに2つの病院名をあげられたが、国立病院以外は名前を聞いたことがある程度だったので、国立病院に紹介状を書いてもらうことにした。宛先は外科部長。正月4日に行く予定にした。

 これで安心のはずだった。ところが、年が明けると気が重くなってきた。別に手術が億劫になったわけではない。入院先としてそこがいいいかどうか迷いが出てきたのだ。紹介状の宛先は外科部長だから技術的には問題ないはずだが、病院が古くて待合いや廊下などが暗いのが気になったのだ。
 同じ入院するなら明るい方がいい。でないと気持ちまで病人になる。病は気から、という言葉があるように、気持ちが明るければ病気の治りも早いが、薄暗い環境で気が滅入るようだと治る病気も治らない。医療技術は病気治療に必要な絶対条件だが、それがすべてでない。むしろ必要なのは医師・病院と患者との信頼関係を含め、トータルで病気を治すことではないだろうか。

 さて、入院先を迷っている時、同じマンションの知人の奥さんが立ち話のついでに
「どこに入院されるのですか。九州中央病院にされればいいのに。近いし、広くて明るいですよ」と教えてくれた。ご主人が最近入院されたのだが、病院の印象がとてもよかったようだ。
 話を聞いて私は即座に入院先を変更することにし、再度、クリニックを訪ね紹介状を九州中央病院に再び書き換えてもらった。
 同病院は知人の奥さんが言った通りだった。エントランスは広く、しかも一部が2階までの吹き抜けになっており、非常に開放的で、初めて訪れた人の不安感を取り除き、リラックスした気分を与えてくれた。

 近年、患者のことを「患者様」と呼ぶ病院が多いが、あの呼称に違和感を感じるのは私だけではないだろう。それは国会議員が選挙の時だけ取って付けたように「国民の皆様」と言うのと似た感覚を覚えるからだ。
 呼称を丁寧にすればいいということではないはず。大事なのはむしろ中身。口では「患者様」と言いながら、診てやっているという態度を取る医師、病院もまだあるが、そうした病院はもう生き残っていけないだろう。
 表面的に「患者様」と呼ぶだけでなく、病院もサービス業という立場に立つことが必要だろう。そうすれば何が必要かは自ずと見えてくると思うのだが。
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# by kurino30 | 2006-01-27 22:52 | Trackback(2) | Comments(0)
奇跡的に戻ってきた妻。
 「私はついているから絶対出てくるよ」
あまりにもしょげ返っている私を見かねて、友人がそう言って慰めてくれました。
ホテルに着くとすぐフロントで事情を話し、リニアモーターカーの駅に電話をしてもらいました。
しかし、返ってきた言葉は「もう時間外だから電話が通じない。明日朝9時に電話をしてみて下さい」でした。
それ以上努力してくれる素振りもなく、気の毒がっている様子さえないように見えました。

 「とにかく降りた駅までこれから行ってみよう。何とかなるよ」
もう営業時間は終わりで駅には誰もいないと言われましたが、私達はリニアモーターカーの終点、龍陽路駅まで行きました。
駅に着くまではリニアモーターカーの営業が5時で終わったなどという言葉は信じていませんでした。
だって、空港はまだ開いているし、5時以降に着く飛行機だってあるのです。5時以降に着いた客はどうするんだ、と思いました。
 しかし、駅に着いて納得です。
本当に駅は閉まっていましたというか、駅に上がるエスカレーターが止まり、入れなくなっていたのです。
そう教えてくれたのは近くにいた中国人でした。
彼に事情を話すと守衛室があるから、そこに行ってみたら、と場所を教えてくれました。

 こういう時に完全な中国語を話せる人間が側にいるのは本当に助かります。
もし中国人通訳なら、こちらの気持ちをうまく先方に伝えることができないでしょう。守衛(?)の人達は熱心に話を聞いてくれ、どこかに何度か電話をかけてくれました。
どうも彼らは友人を中国人と勘違いしたようでした。
それぐらい完全な中国語を話すのですが、外観も日本人には見られないようです。
そういうことも大きく影響し、場は笑いが絶えません。
1人困った顔をしているのは私だけでした。

 あまりにも和やかに話しているからなのか、段々人が集まってきました。
そのうち日本語を話せる人がやってきて、非常に親切に応対してくれましたが、結局その日のうちには忘れ物は発見されませんでした。
「まだ全車両が車庫に入ってないので、明日調べてみますから電話してください」
 彼はそう言って会社の電話番号と自分の携帯電話番号、さらには明日の担当者の名前と電話番号まで書いてくれました。
彼はJTBの現地社員だったのです。

 翌朝10時に電話をしてみました。
JTBの日本人女性は申し訳なさそうに「確認しているんですが、まだ分かりません。もう一度催促してみます」と言ってくれました。
「実は昨日は言ってなかったのですが、リュックの中には妻の遺骨も入っているんです」
 相手が日本人だったので、私はその時初めて遺骨のことを伝えました。
すると電話の向こうで相手が息を飲みました。
「それはお困りでしょう。なんとか探してみますから、もう少し待ってください」
 彼女はそう言ってくれました。
藁をもすがる気持ちというのはこういう時だと思いました。
実は私達はJTBの客でもなんでもないんです。それなのに昨日の中国人社員といい、今日の日本人女性社員といい、本当に親切に応対してくれました。
もちろん本当の感謝はリュックサックが見つかってからでしょう。
でも、旅先で親切にされると、本当に地獄で仏のような心境になります。
いわんやここは外国です。日本語が通じるだけでホッとします。

 12時までの間にホテルの私の部屋に数度電話がありました。
その度にパソコンやデジカメの銘柄など、リュックサックの中に入っているものの中身を詳しく聞いてくるのです。
それだけで彼女の熱心さが伝わってきます。
こんなに熱心に探してくれているのだから、リュックサックが出て来なくてももう仕方がない。そういう気にさえなりました。

 「見つかりました。中身の確認をしていたのですが、中身が一致しました。いま手元に届いていますから」
 最後の電話で彼女はそう言ってくれました。
「ありがとうございました。これから取りに行きます」
 奇跡としか言い様がありません。本当に助かりました。彼女もホッとしたようでした。

 どこの国にでも親切な人はいるものです。昨日、JTBの中国人社員が残っていなければ、彼が義務的な男で自分は明日休みだからと引き継ぎをしてくれなかったら、きっとリュックサックは出て来なかったに違いありません。
「奥さんが守ってくれたのよ」
友人もそう言ってくれました。
本当にそうだと思いました。
異国の地に1人残されたら堪らん、と妻も思ったに違いありません。
 ありがとう。
皆に感謝です。私を励ましてくれた友人、JTBの現地社員の方々ありがとうございました。
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# by kurino30 | 2005-11-04 07:46 | Trackback | Comments(0)
妻を車中に置き忘れる。
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 いつか一緒に中国を旅したい。
ずっとそう思っていました。
妻も中国に行ってみたいと言っていました。
それがこんな形で連れて行くことになろうとは思いもしませんでした。
 妻は私のよき理解者でした。
よき理解者すぎたのかもしれません。
「たまには私も連れて行ってよ」
もし、そう言っていたら
「今更おまえと2人で行ってもおもしろくはないだろう」
などと皮肉りながらも、内心は喜んで一緒に行ったと思います。
 しかし、妻はそこまで甘えることもしなかったし、私も強引に誘いはしなかった。
その結果、私は都合4回も中国に行っているのに、一度も妻と連れだって行ったことがありません。
でも、これからはどこに行くにも連れて行ってやろうと思っています。

 こうして、私はリュックサックの中に妻の遺骨を納めた小さな器を入れ、上海に行きました。
「ほら見えるかい。あれが上海だよ」と話しかけながら。
 ところが、浦東空港からリニアモーターカーに乗り、時速430kmの世界最速をビデオ撮影したりして楽しんでいるうちに網棚にリュックを忘れてリニアモーターカーから降りてしまいました。
 ところが、リュックがないことに気づいたのは、その後地下鉄に乗って人民広場駅で下車した時でした。

 なんという迂闊。
自慢ではないけれど私は傘でさえどこかへ置き忘れたことがないのです。
それなのに初めて妻と一緒に旅した外国で、妻を置き去りにしてくるなんて・・・。
もし、このまま妻が見つからなかったら、私一人帰るわけにはいかない・・・。
その時、心底そう思いました。

 中国で忘れ物をしたら出てこない。
ガイドブックにもそう書いてありました。
しかもリュックの中にはノートパソコンにデジカメ、デジタル録音機と、日本でさえ誰もが欲しがる物が一緒に入っていました。
まさに絶望的です。
出てくるはずがない。
そう考える方が当然です。
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# by kurino30 | 2005-09-06 23:26 | Trackback | Comments(0)
妻と旅する
 妻が旅立って4年目になります。
その間ずっと考えながら、未だ実行してなかったことがあります。
それは旅に一緒に連れて行くことです。

 思えばほとんど一緒に旅をしたことがありませんでした。
妻は帰宅途中によくバスの中からツアーの紹介チラシを持ち帰っていたのに、私は気付かぬ振りをしていました。
30年近くも一緒にいると、夫婦2人だけで旅行をしても感動よりは気まずさが、会話よりは沈黙の方が多いものです。
恐らくどこの夫婦も似たようなものではないでしょうか。

 しかも、私は前もって計画を立ててというやり方が苦手ときています。
前もって計画を立てていても、その時になって急に仕事が入ったり、気が進まなくなったりして、何度もキャンセルしたこともあります。
だから、たまにどこかに行こうかと言っても、「あなたの言うことは信用できない」とほとんど相手にされなくなりました。
それでも妻が本当は旅行に行きたいのが分かっていました。
ただ、期待してガッカリさせられるのが嫌だったのです。

 私の我が儘です。
外国旅行に連れて行けというわけでもありません。
近くの温泉場で1泊、日帰り旅行でもよかったのです。
それくらいなことで喜んでくれたのです。
その程度の時間を作ることぐらい何とでもできたはずです。
でも、それをしてこなかったのです。

 私がどこかへ行く時には一緒に連れて行き同じ景色を見せてやりたい。
これからはそれがせめてものつぐないだ。
妻が旅立ってからずっとそう思ってきました。
帰省する時はいつも助手席に妻のお骨を乗せて帰りました。
車で移動する時はそれでもいいのですが、列車や飛行機での移動となるとそういうわけにもいきません。
第一荷物が嵩張りすぎます。

 そこでもっと小さくて、いつも連れて歩けるものを探していました。
仏具屋さんに行けば分骨用の小さな骨壺を勧められますが、それでもまだ大きすぎます。
私が探しているのはもっと小さな物です。
そんなある日、小さな容器にご主人のお骨を入れ、それをペンダントにしているという新聞記事が目に止まりました。
そうだ、そういう方法がいい。
そんな容器を探してみようと思いました。

 その新聞記事を目にして数日後、私は具体的な行動を起こしました。
それは上海に行く日が近付いていたからです。
新聞記事に載っていたぐらいだから、最近はそういう風にする人がいるということであり、もしかすると仏具屋さんにも何か適当な物が売られているのではないだろうかと思いました。
 ある仏具屋さんでは香水入れのビンなどを利用されてはどうですか、というアドバイスを受けました。
ファッション関係の店ならガラス瓶を売っているはずだから、と。

 何軒かの店を回って最終的に私が見つけたのは直径6cm、高さ2cmのお香入れでした。
その中に何片かのお骨を入れ、化粧袋で包み、上海に一緒に連れて行きました。
いままでどこにも連れて行かなくてゴメンねと謝りながら。
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# by kurino30 | 2005-07-12 19:28 | Trackback | Comments(0)
静かな時間が欲しかった・・・。
 4月12日、妻は朝6時から2時間おきに下血し出しました。
特に午前10時半の下血は出血量も多く、昼過ぎ、医師から輸血をするか、このまま静かに見守るかと尋ねられました。
数日前からすでにその日が非常に近いと聞かされていましたが、いざ、その時となると先生と話していても涙が止まらなくなりました。

 それから半日、私はベッドサイドで眠ったままの妻の手を握り過ごしました。
思えば父の最期の時も私は手を握ったままでした。
 妻は数日前からほとんど眠ったままで、意識が覚醒するのは1日20分程度でした。
それも5分、10分と断続的で、トータルで20分程度という状態です。

「今日は一緒に寝ようか」
妻の意識が覚醒した時、私はそう問い掛けました。
「うん。でもベッドが狭いから寝れるかな」
「大丈夫だよ。ソファーを横に付けてもいいし」
そんな会話を二言三言交わした後、またすぐ妻は眠りに就きました。
言葉を発するのさえきつかったのだと思います。

 病室に来られた先生にそのことを話しました。
すると即座に先生が「もう一つベッドを入れてあげましょう。二つ並べて寝れるようにしてあげますから」と言われました。
その後、看護婦さん達が来られて「病室を替えましょうね。向こうの部屋の方が広いからベッドもゆっくり入れられますし」と、それが先生の指示だと言われました。

 ところが、その夜、2つのベッドをくっつけて眠ることはありませんでした。
10時40分ーー。妻が独り静かに旅立ったからです。

 でも、最後の10数分、私は妻のベッドに入り込み、約束通り添い寝をしました。
妻の耳元に語りかけながら・・・。
聞こえていたかどうか分かりません。
今では私も何を喋りかけていたのか思い出すこともできません。
でも、耳元に口を付け何かを言いながら頭を撫で続けていました。

 そうこうする内に皆がベッドの周囲に集まり出しました。
「お願いだから出て行ってくれ!」
妻に添い寝をしながら、私は心の中で叫んでいました。
二人きりにして欲しいーー。
お願いだから静かな時間をくれ。

 でも、口に出して言うことはできませんでした。
なぜ、そう言わなかったのか、そうしなかったのか。
今でも後悔しています。

 時には人の善意が煩わしくなります。
湯灌もそうでした。
たまたま妻の中学時代の友人が元看護婦ということもあり、同じくもう一人の友人と看護婦さん達で湯灌をするので他の人は外に出て、みたいな感じでした。
私も言われるがまま部屋から外に出かかったのですが、やはり最後は自分の手で体を洗ってやりたいと思い、「私にもさせてくれ」と言って、妻の体を清めました。

 これも後悔しています。
最後まで全部一人でゆっくり拭いてやりたかった。
そういう配慮が欲しかった。
 何かの映画で病院が葬儀社を呼びましょうかというのを断り、母親が自分で連れて帰ると言い、子供をおぶって車に乗せ、家まで運転して帰るシーンがありましたが、本当は私もそうしたかったんです。
共に過ごした29年の時間を話し合いながらゆっくり振り返るには、それなりの時間の流れ方が必要です。

 魂は肉体を離れてもしばらくそこに止まって、それからゆっくり上昇していきます。
魂がまだ浮遊している間は誰にも邪魔されず二人だけで静かに過ごしたい・・・。
そうした私の願いは全て慌ただしい動きの中で封じ込められました。
 だから、いまでも納骨せずに手元に置いています。
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# by kurino30 | 2005-04-25 09:43 | Trackback | Comments(2)
面会謝絶・・・。
 入院4日目の4月10日。
いつも8時までには一度目覚める妻が今日はずっと眠ったままです。
先生も心配して昨日から日に何度か病室に顔を出してくれます。
「意識が段々なくなりつつありますね。もしかすると、このまま目覚めないということもあるでしょう」と言われました。
いよいよこの1両日が山です。

 妻の入院のことを知らせてから見舞客がどんどん来ます。
今日も20人来てくれました。しかし、数人を除いて皆お断りをしました。
その代わりに、妻が目覚めたらお見えになったことを伝えますからと、ノートに名前を書いてもらい、デジカメで写真を撮らせてもらいました。

 わざわざお見え頂いた皆さんですから、できることならちょっとでも会ってもらいたい、こんなに皆が心配してくれているということを妻に伝えたい。
そう思う反面、痩せて苦しむ妻の姿を人目に触れさせたくはありませんでした。
昔の元気な頃の想い出を大事にして欲しいと思いました。

 夜10時過ぎ、妻の中学時代の友人がアメリカから到着することになっていましたが、痛みが増し、何度も何度も苦しそうに腕を上げもがくので、9時には鎮静剤を打ってもらいました。
苦しむ姿を見るのは本当に辛いものです。

 私の疲れもピークに達していました。
目を開けているのが辛いほどです。
10時前に電気を消し、私も椅子を並べて寝ることにしました。

 すると物も言わずにスーと入ってきた人物がいます。
そして妻の横に行き、寝顔を無言のままジッと見つめているのです。
妻の従姉妹です。
暗闇の中で身動きもせず、いつまでも無言のまま座っているのです。

 正直私は早く眠りたいと思っていました。
妻も眠ったままです。
第一、挨拶一つせずに病室に入ってきて、ずっと無言のままは失礼な態度です。
「容子も眠っているから、もう帰ってくれないか」
私のこの一言が以後、従姉妹との間を決定的にしたようです。
通夜、葬儀の時も顔を見せず、私が妻を殺したというようなことを言い触らしているようです。

 考えてみれば、そうかもしれません。
生前、苦労ばかりかけてきたのですから。
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# by kurino30 | 2005-04-22 19:20 | Trackback | Comments(0)
相次ぐ見舞客。
 最初の福大病院からガンセンター、ホスピスと入院先を変えてきたが、その間妻の職場の人間は誰一人見舞いに来てくれませんでした。
別に嫌われていたわけでありません。むしろ、その逆です。
最初の頃は妻も「皆が見舞いに来たらうるさいだろうからと気を遣って人事が知らせないようにしているのよ」と全く気に留めていないようでした。

 そう言われるとそうかもしれません。
妻は人事の課長でしたから、いわゆる教え子達がたくさんいました。
だから入院したと聞けば、皆が見舞いに来るに違いありません。
そうなると静養にならない、との気遣いです。
でも、入退院を繰り返したとはいえ、1年近くも入院しているのですから会社も社員に知らせていいと思うのですが、なぜか妻の入院をひた隠しにしているようなところがありました。
当の人事の人間でさえ見舞いには来たことがなかったのですから。

 ホスピスに入院して3日目、私は親しかった妻の部下に電話をしました。
病院名を告げ、親しかった人数人の名前を挙げて、出来れば彼女たちに連絡して見舞いに来てくれるように言ってもらえないかと。
すると相手は知らなかった、とビックリしたのです。

 その日の午後から見舞客が相次ぎました。
皆、口々に「課長が入院しているとは知らなかった。知っていたらもっと早く見舞いに来たのに」と言ってくれました。
なぜもっと早く知らせてくれなかったと、私に詰問した親しい友人もいました。
そして多くの人が課長の姿が見えないので人事に聞いても箝口令が敷かれているようで誰も何も教えてくれないし、聞いてはいけないような雰囲気があったのです、と悔しがり涙を見せました。

 知らせなかったのではない、知らせてくれなかったのです。
同じ見舞いに来てもらえるなら、まだ妻が元気な時に来て欲しかった。
もう、いま来てもらわなければ、間に合わない。
そう思ったから、私達に親しかった人にだけでもと思い連絡したのでした。
 でも、遅すぎました。
あまりに見舞客が相次いだのと、覚醒している時間が短くなっていたので、せっかく来てもらっても話も出来ないどころか、翌日からは面会もお断りするようになりました。

 元気な時だったら、妻がどんなに喜んだか・・・。
それなのに、いまは誰が来てくれたのかさえ分からなくなっています。
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# by kurino30 | 2005-04-20 01:12 | Trackback | Comments(0)