病気と医療について考える~栗野的通信
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ガンで旅だった妻への挽歌と、病気と医療についての考察。
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相次ぐ見舞客。
 最初の福大病院からガンセンター、ホスピスと入院先を変えてきたが、その間妻の職場の人間は誰一人見舞いに来てくれませんでした。
別に嫌われていたわけでありません。むしろ、その逆です。
最初の頃は妻も「皆が見舞いに来たらうるさいだろうからと気を遣って人事が知らせないようにしているのよ」と全く気に留めていないようでした。

 そう言われるとそうかもしれません。
妻は人事の課長でしたから、いわゆる教え子達がたくさんいました。
だから入院したと聞けば、皆が見舞いに来るに違いありません。
そうなると静養にならない、との気遣いです。
でも、入退院を繰り返したとはいえ、1年近くも入院しているのですから会社も社員に知らせていいと思うのですが、なぜか妻の入院をひた隠しにしているようなところがありました。
当の人事の人間でさえ見舞いには来たことがなかったのですから。

 ホスピスに入院して3日目、私は親しかった妻の部下に電話をしました。
病院名を告げ、親しかった人数人の名前を挙げて、出来れば彼女たちに連絡して見舞いに来てくれるように言ってもらえないかと。
すると相手は知らなかった、とビックリしたのです。

 その日の午後から見舞客が相次ぎました。
皆、口々に「課長が入院しているとは知らなかった。知っていたらもっと早く見舞いに来たのに」と言ってくれました。
なぜもっと早く知らせてくれなかったと、私に詰問した親しい友人もいました。
そして多くの人が課長の姿が見えないので人事に聞いても箝口令が敷かれているようで誰も何も教えてくれないし、聞いてはいけないような雰囲気があったのです、と悔しがり涙を見せました。

 知らせなかったのではない、知らせてくれなかったのです。
同じ見舞いに来てもらえるなら、まだ妻が元気な時に来て欲しかった。
もう、いま来てもらわなければ、間に合わない。
そう思ったから、私達に親しかった人にだけでもと思い連絡したのでした。
 でも、遅すぎました。
あまりに見舞客が相次いだのと、覚醒している時間が短くなっていたので、せっかく来てもらっても話も出来ないどころか、翌日からは面会もお断りするようになりました。

 元気な時だったら、妻がどんなに喜んだか・・・。
それなのに、いまは誰が来てくれたのかさえ分からなくなっています。
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# by kurino30 | 2005-04-20 01:12 | Trackback | Comments(0)
目まぐるしく変化する容態。
 輸血が効いたのか、入院翌日に奇跡的に回復した妻に大喜びしましたが、持ち直したのは午前中11時頃まででした。

「今日は誰か来てくれないかな」
 元気になった妻は友達に会いたそうに呟きました。
「分かった、○○さんに連絡して、来てもらおう」
 そう告げると、久し振りに友達に会えるからでしょう、うれしそうな顔をしました。

 母からも電話があり、病院に向かっているとのことでした。
電話で話しをしていても、誰もの声に明るさが戻りました。
山は越えた。
正直、私もそう思いました。

 母も30分以内には来るし、今の間にもう一度自宅に戻り身の回りの物を持ってこよう。ついでに事務所にも寄ってノートパソコンも持ってこよう。
そう考え、「ちょっと出かけてくるけどいいか」と妻に尋ねると、「大丈夫だから、行ってきていいよ」というので、小1時間出かけることにしました。
まさか、その1、2時間の間に容態が悪化するとは夢にも思わなかったから。

「容子、具合はどうだ」
病室に戻るなり、そう声を掛けました。
「うん、調子いいよ」
そう返事がくることを期待して。
 ところが、妻は入り口に背を向けたままで、母が「私が来て間もなくから、ずっと寝たままだ」と言います。
 結局、今朝の元気な様子を目にしたのは私だけでした。

 午後は一転して痛がりました。
私はずっと妻の手を握っていましたが、時折り激しく痛みを訴え、手を力一杯握ってきたり、何度も起き上がろうとする動作を繰り返します。
寝ているのが苦しいのです。
「うーん、うーん」
言葉にならない声を発します。
「痛いのか・・・。痛いね、痛いね」
そう声を掛けながら背中をさすってやりますが、あまり効果はありません。

 あまりの痛がりように最初はうろたえました。
ナースコールで呼ばれてやって来た看護師さんはオムツを点検し、「少し出ているようですからオムツを取り替えましょうね」と、オムツを取り替え、汚れたお尻をきれいに拭いてくれました。
 痛くて排泄するのか、下血時に激しく痛むのか分かりませんが、いずれにしろ非常に痛がる時は排泄をした時のようです。

 この日から私は病室が仕事場になり、病院の硬いイスがベッドになりました。
妻は眠っている時間の方が圧倒的に長くなりました。
覚醒している時間は1日20~30分程です。
それも続けて20分ではなく、午前中に5~10分、午後5~10分という感じで、トータルで20~30分です。
それも日を追って短くなっていきました。
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# by kurino30 | 2005-04-18 18:08 | Trackback | Comments(0)
奇跡的に回復する。
 朝5時頃、妻が目を覚まし、「水が飲みたい」と言いました。
コップに水を入れて渡すと、よほど喉が渇いていたと見え、もう1杯、もう1杯、と4杯も飲みました。

 なによりうれしかったのは、昨日38度もあった熱が引き、普通に会話が出来るようになったことでした。
まるで昨日のことが嘘のようです。
うれしくてたまりません。
本当に奇跡が起こったのではないかと思いました。
もしかすると、もう一度退院できるのではないか。
そんな気さえしました。

 妻に昨日のことを尋ねてみました。
実は、入院した後、私の姿が見えなかったから、母に私の名を呼びながら「来てくれるだろうか」と言ったそうです。
そう母から聞いていたので、もしやと思い尋ねたのです。

 「救急車で運ぶ前にぼくが着替えさせてやったのを覚えている。その前の晩はぼくが同じベッドでずっと寝ないで看病してあげたでしょう」と。
 ところが、妻はそのことを全然覚えていなかったのです。
これは大ショックでした。
そんなに私は薄情な男、妻から信頼されてなかったのかと思うと、本当にショックでした。
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# by kurino30 | 2005-04-16 00:16 | Trackback | Comments(0)
救急車で入院する。
 今朝になって2時間だけ眠りました。
予定では朝10時頃に入院することになっていましたが、その時間まで待てないので、7時になると病院に電話しました。
 ところが、まだ時間が早いので夜勤の看護師さんしかいず、8時前には婦長が来るので、来たら電話させるのでそれまで待って欲しいと言われました。
 あと1時間も待つのかと思いしたが、意外に早く婦長さんから電話があり、アドバイスに従って救急車を呼び入院させることにしました。

 119番で救急車を呼んだ後、妻に着替えさせてないことに気が付きました。
昨夜の吐血と下血で、着ていたジャージは袖口が血で汚れていたし、下着も汚れていたからです。
 病人といっても女性です。きれいな格好で入院させてやらねば、気が付いたら妻が悔やむに違いないと思ったのです。

 母に手伝ってもらい、痛くて嫌がる妻を抱きかかえ、なんとか着ているものを脱がして新しいパジャマに着替えさせました。
下着を取り替える前に、下血で汚れたお尻もきれいに拭いてやりました。
救急車で運んでもらうのですから他人の目に触れるわけです。
最低限の女性の身だしなみはしてやっておかなければ。そう思いました。
本当は口紅も引いてやりたかったのですが、そこまでは手が回りませんでした。

 救急車には母に乗ってもらい、私は入院用の荷物を持ち、車で救急車の後を追いました。
 病院に着きしばらくすると先生に呼ばれ、「極度の貧血状態なので輸血を3パックする」と告げられました。
輸血3パックというのはちょっとした手術並みの量のようです。

 「よく意識を失わずにおられましたよ。普通これだけの血液がなくなっていれば意識不明になっています。恐らく急激に出血するのではなく、少しずつ出血していたのがよかったのでしょうね」
 と先生から言われました。

 この日から私は病院に泊まり込むことにしました。
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# by kurino30 | 2005-04-15 23:29 | Trackback | Comments(0)
ホスピスへの入院を決める。
 妻の希望で再入院先はガンセンターではなくホスピス病棟併設の栄光病院にしました。
福岡ではホスピスとして有名な病院ですし、ホスピス長のS医師はクリスチャンでした。
妻がこの病院を選んだのは以前知人が入院していたことがあり、同病院のことをよく知っていたからですが、私もセカンドオピニオン的に相談していたC病院のN病院長からS先生の情報は得ていました。
N病院長と同じ九大医学部の出身だったからです。

 ホスピスに入院すると決めてから妻の容態が激変しました。
入院日を翌日に控えた4月5日は朝から一切食べ物を口にしていないにもかかわらず、夜になってもお粥さえ食べようとせず、眠り続けているのです。
話しかけてもトンチンカンな返事が返ってき、惚けたのではないかと思ったほどでした。

 なによりおかしいのは、いままで時間が来ると厳重に飲んでいた痛み止めの薬を今日は全然飲もうとしないことです。
いつも薬を飲む時間の12時頃、「薬は飲まなくていいのか」と尋ねても、「痛くない」と言って飲もうとしません。
昨日まであれほど痛がっていたのに、もしかすると痛みすら感じなくなったのではないだろうかと不安になりました。

 いつもは私か母がベッドの下に布団を敷いて寝ていたのですが、この日は不安だったので服を着たまま妻を抱えるようにして起きていました。
このまま水分も取らないと脱水症状になるので、なんとか水分だけでも取らせないとと思っていると、夜中2時半頃、やっと目を覚ました。

「水を飲むか」
「うん、飲みたい」
水よりは少しでも栄養があるものをと考え、バーモンド酢などが入ったパイロゲンという健康飲料水を1杯飲ませました。
やはり喉が渇いていたと見え、「もっと飲みたい」と言うので、もう一杯飲ませ、コップを流しに戻しに行った時です。
「うーん、うーん」と叫ぶような呼ぶような声に急いで戻ると、口に手を当てどす黒いものを嘔吐しました。
それは何とも言い様がない程どす黒い色をした血でした。

 直後から激しく痛がりだしました。
「くすり、くすり」と言っているようなのですが、はっきり言葉にならないのでよく分かりません。
それでも薬を要求しているのだろうと、妻の薬箱を持って行き、どれが痛み止めの薬かと聞いても、早く、早くという素振りだけで、もう返事も出来るような状態ではありませんし、薬箱をあさるのですが目も見えていないようでした。
これだろうと思って、なんとか飲ませた薬は、あとで胃薬だったことが分かりました。
私も動転していたのです。

 薬を口にした後も何かをしきりに訴えます。
しかし、言葉にならないものだから、どうして欲しいのかが分からず困っていると、ベッドから降りようとしたので、「トイレか」と聞くと、「違う、座薬、座薬」と言うので、支えるようにしてトイレに連れて行き、座薬を入れてやりました。
その間、本人は朦朧としたままです。

 座薬を入れた後も妙な動作を繰り返します。
脱衣籠の蓋を開けて座ろうとしては閉める動作を繰り返しているのです。
その繰り返し動作を数回見て、やっと私は妻が便座に座ろうとしていることに気付きました。
そして便座に座らせた瞬間、激しく下血です。
先程、吐血した時と同じようにどす黒い血でした。

 でも、それで少しは落ち着いたのか、やっと眠りについてくれました。
後で先生から言われて気付きましたが、それは眠ったのではなく、意識を失っていたのでした。
朝4時でした。
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# by kurino30 | 2005-04-13 07:19 | Trackback | Comments(0)
夏まで持つでしょうか。
 3月末前後になると妻はますます食べられなくなり、パンをちぎって牛乳に浸して食べさせたり、今日は調子がいいから食べられそうという時はお粥を作って少し食べさせたりしていました。
 体調は1日の内でも目まぐるしく変化しました。
午前中は元気だったかと思うと、夕方からは起き上がれない程になるという繰り返しでした。
本人も苦しかったに違いありませんが、家族も戸惑うばかりです。

 この頃になると自慢の胸もすっかりなくなり、腰は曲がったままでまるで老人のようになりました。
かつてはしっかりしていた性格もまるで別人を見るようにすっかり気弱になってしまいました。

 いままで少々苦しくても弱音を吐いたことなどない妻が母に何度も頼むようになりました。
「お母さん、背中をさすって」
よほど苦しかったのでしょう、いつまでさすっても、もういいとは言いません。
 肺に水が溜まりだし、もう普通の格好で寝られなくなっていましたが、寝返りを打つのさえ苦しかったのです。

 私も気功の真似事で手を当ててやると「暖かくて気持ちいい」と喜びました。
でも、私の場合はすぐ飽きて、母ほど長くさすってくれないと解っているから、どうしても母を呼びます。
いま思えば本当に母もよくしてくれたと感謝しています。

 4月3日、ガンセンターに薬をもらいに行ったついでに主治医に思い切って尋ねました。
「先生、夏まで持つでしょうか」
 主治医は一瞬驚いたような顔をした後
「すでに胸とお腹に水が溜まっているから、あと1、2カ月持つかどうかでしょう」
 と言いました。
「それは自宅で診るのは大変でしょう。すぐ入院させなさい。でないと救急車で運び込まれることになるよ」
 そしてすぐベッドの空きを確かめると、2日後に入院出来るからそうしなさい、と言われましたが、いくら何でもそんなに早く本人の決心が付かないだろうと思い、せめて来週にして欲しいと頼みました。

 「あと1、2カ月」
先生のその言葉に、いつかはその時が来るだろうと覚悟はしていましたが、それがこんなにも差し迫っていると聞かされ、呆然としました。
 身辺整理のための退院と言われていましたが、身辺整理どころか妻にはその覚悟すら出来ていなかったのですから。
いわんや、こちらから身辺整理をしなさいなどとはとても言えません。
どうすればよかったのでしょう。
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# by kurino30 | 2005-04-12 00:03 | Trackback | Comments(0)
妻に食事を作る。
 私は若い頃からインスタントラーメン一つ作ったことがなく、結婚しても食事はもちろんのこと家のことは何一つしたことがありませんでした。
そんな私が妻の退院を機にキッチンに立ち始めたのです。

 昔から男がする料理に興味というか憧れみたいなものはありました。
でも、包丁を持ったこともない男です。
そんな私がする料理ですから元々大したものは出来ません。
せいぜい作れるのはインスタント食品に少し手を加えるぐらいです。

 得意料理(?)はうどんでした。
中に入れる具は小さく刻んだ人参にネギや春菊、それにカマボコ、玉子、アガリクス茸ぐらいなものです。
包丁を持つ手も危なかしかったに違いありません。
それでも妻は母より私が作る料理を喜びました。

「彼は料理だけでなく包丁の音までおいしく聞かせるでしょ」
妻は母にそう言って、私を乗せるのでした。
私が作れる料理は数限られているのに、それでも私に作って欲しいと言いましたし、私が作ったものなら残さず食べました。
恐らく母と私では料理の味付けが違うからでしょう。

 そんな妻も徐々にというか急速に食欲がなくなっていきました。
私が作ったうどんも半分、1/3しか口に出来なくなりました。
一度に食べることが出来ず、休み休み食べたり、少し食べてもすぐ戻すという繰り返しです。
それでもなんとか栄養を付けさせないといけないので、リンゴを擦って食べさせたりもしました。

 本人が一番辛かったと思います。
でも、母も私も疲れていました。
どうしてもっと優しくしてやらなかったのかと、いまでも後悔しています。
仕事という逃げ場へと逃避していました。
どこへも逃げ場のなかった妻はどんなにか苦しかったことだろうと思います。
断罪されるのは残されたものです。
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# by kurino30 | 2005-04-11 19:00 | Trackback | Comments(0)
退院・・・。
 抗ガン剤の投与継続について説明した後、主治医の口から意外な言葉を耳にしました。
「今回の投与が終われば、一度退院しなさい」
「・・・」
 言われている意味がよく理解できずにいました。
腫瘍マーカーの数値が下がっているとはいえ退院するほど快方に向かっているとは思えなかったからです。
そんな私の思いを察してか、主治医は言葉を続けました。
「ガンが腸の方にじわっと進行しているので、早晩食事が採れなくなる。そうなると流動食しかダメになるし、黄疸も出てくるだろう。だから、今回の退院は自宅で過ごす最後の時だと思った方がいい。厳しい言い方をするようだが身辺の整理をする時間も必要だろう。次に入院する時はもう帰れないと思って欲しい」

 この夜、私は小用が終わった後、便器が真っ赤に染まり驚きました。
血尿でした。
いままでも多少滲む程度のことはありましたが、これほどの血尿が出たのは初めてだけに驚きました。

 それから4日後の3月16日(土)、妻をガンセンターに迎に行き退院しました。
いままでの退院とは違い、今回は妻の顔色も悪く、同室の人達の中でも一番重病人という感じです。
それでも努めて明るく振る舞おうとしている妻がいじらしくて・・・。
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# by kurino30 | 2005-04-11 10:58 | Trackback | Comments(1)
抗ガン剤の効き目。
 3月16日、妻は病室で喜んでいました。
今日、ガンセンターを退院することになったからです。
しかし、喜ぶ妻の心とは逆に、顔色は同室の人達の中で一番悪く見えました。

 4日前、私は主治医に呼ばれました。
話は抗ガン剤の投与継続のことでした。
 主治医は数値を示しながら私に次のように説明しました。
過去3回抗ガン剤を投与しましたが、投与後の腫瘍マーカーの数値は皆下がっています。
だから抗ガン剤の効き目が出ているということですから、私は今後も抗ガン剤の投与を継続した方がいいと思っています。

 私と妻の考えは、腫瘍マーカーの数値にさほどの差がなければ抗ガン剤の投与は止めるというものでした。
 ところが、数値は明らかに下がっていました。
効き目が出ていると解っているものを止める必要はありません。
私は同意しました。
そして、そのことを妻にも伝え、納得させました。

 主治医が私に話があると言った時、妻と私はそれぞれに緊張しました。
こういう時は病人の常として悪い方に解釈します。
「まさか・・・」
互いに言葉にはしませんが、2人は同じことを考えたはずです。
私は平静を装って「なんだろうね。きっと数値が下がっているということじゃないか。聞いてくるよ」と出来るだけ明るく言ったつもりですが、動揺は隠せませんでした。
 妻と顔を見合わすと私の動揺が見透かされそうなので、顔を見合わせないようにして病室を出ました。

 多少の覚悟をしていただけに、主治医の話を聞いた時はホッとした気持ち半分、気抜けした気分半分でした。
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# by kurino30 | 2005-04-09 01:56 | Trackback | Comments(0)
桜吹雪・・・。
b0039302_1126393.jpg 母は「桜は嫌いだ」と言います。
桜は妻の病気と繋がっているからです。
最初に福大病院に入院した時も桜の季節でした。
栄光病院での最後の1週間も桜が咲いている頃でした。

 それでもまだ福大病院の桜は希望を感じさせる桜でした。
桜の花の下で、セルフタイマーにセットして2人で写真に収まりました。
「これがいかんね。これがなければもっとよかったのにね」
出来上がった写真を見て、妻が残念そうに言いました。
点滴用の支柱を持ったまま写真に収まっているのがよくないと悔いているのです。

 でも、桜は本当にきれいでした。
私達に希望を与えてくれる美しさでした。
だが、翌年は桜を愛でる時間も余裕もありませんでした。
すべてが終わり、改めて病院を訪ねた時、
旅立った人を悲しむように花びらが風に舞う様が印象的でした。

 春は悲しい想い出を運んでくる季節です。
いつの頃からか礼服は黒いネクタイ専用。
白いネクタイはどこにあるのかさえ分かりません。
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# by kurino30 | 2005-04-06 01:02 | Trackback | Comments(0)