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病気と医療について考える~栗野的通信
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ガンで旅だった妻への挽歌と、病気と医療についての考察。
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老々介護と施設選びの経験から見えたこと
生活環境は変えない方がいいが

 年老いてから住む環境を変えてはいけない、とは分かっていた。分かっていたというのは知識でという意味で、本当のところで分かっていたわけではない。それは、その後私自身が「してはいけない」ことをしてしまったからである。

 20年近く前になるが、子供の頃よくお菓子を買っていた駄菓子屋さんのおばあさんが京都に住んでいる息子の所に転居した。歳は90歳近くになっていたのだろうか、息子にしてみれば老母の独り暮らしを心配してのことなのは間違いない。
 その話を聞いた時、年老いてから住む環境を移すとほぼ1年以内に亡くなると言われているのに、と思った。そして1年が過ぎた頃、そのおばあさんが亡くなられたと知り、やっぱり、と思ったものだ。
 その頃、息子さんは定年を迎えていたか、定年間際だったかだと思う。親を自分の所に連れて来るのではなく、子が親の側に移住した方がいいだろうに。そんなことを漠然と思ったりもしたが、冷静に考えれば息子には息子の生活があり、彼の家族がいる。家族にとっては京都の家が自分達の家で、彼の奥さんや子供達にしてみれば田舎の家は「おばあちゃんの家」という以上の思い入れはないだろう。
 それは彼にしても同じで、ただ生まれ育ったというだけの地に戻って生活するという選択肢はなかったことはよく分かる。

 そして実際その場になると、私自身が同じことをしてしまい、同じ結果を招いた。そう、母を住み慣れた環境から福岡に移し、福岡のグループホームに入所させ、結果、1年で旅立たせてしまった。
 もし、そのまま母が生まれ育った地に置いておけば、と思わぬこともなかった。その場合は私が故郷に戻り、母の側で生活することになるが、その決心が今一つつかなかったのだ。まだ働き盛りの頃は田舎で生活するなどということは微塵も思いもしなかったが、この頃は田舎生活の方が合っているような気がし出しているだけに、あの時、思い切って居を移していたらとどうなっていただろうか。

老々介護の危険性は共倒れ

 それはさておき、本稿の目的は介護施設選びで私が感じたことである。
 親を、伴侶を施設に入れることを躊躇する人は少なからずいるだろうが、いまや老々介護が普通に見られるようになった時代である。
 親の面倒は子が、伴侶の面倒は自分がと考え、また実際にそうされている方もいるに違いない。特に男性の場合、ずっと仕事人間で妻には迷惑をかけてきた、今度は自分が妻の面倒を見る番という、ある種の贖罪意識も手伝った強い思いを抱き、家で伴侶の世話をしている人は多いようだ。

 しかし、その思いが危機を招く元になる。最初の内はまだいいかもしれないが、年々歳を取っていく。当然体力はそれに比例して衰える。よく言われるのが室内で躓き、転倒しての骨折。まさかと思うが、実際に私が住んでいるマンションの住人でも室内の転倒骨折で2か月入院した。転倒と言ってもドスンと転ぶわけでもない。多くが尻餅をつく程度の転倒だが、それで腰椎や手足の骨折をするのだから軽く見てはいけない。
 介護する側が怪我をしたり病気で入院すると被介護者はとたんに困る。その段階で介護施設への入居を考えても、どこも順番待ちでおいそれとは入れない。最悪の場合は共倒れという危険さえある。
 そうした事態を避けるためにも早めに少しずつ準備をしておくことが必要だろう。

必要なのは手抜き

 介護で必要なのは手抜きだと思う。真面目な人ほど親を、伴侶を支えるのは自分しかいない、自分が支えなければと使命感のようなものを感じ、一生懸命に介護しようとするし、また介護する。
 それがよくない。私の経験からも言えるが、介護する側が精神的にどんどん追い詰められていくのだ。傍から見れば、あるいは自分でも、そんなに真剣に考えているわけではない、追い詰められてなんかいないと思っていても、小さな不平とか負担からくる葛藤みたいなもの精神(こころ)の奥底で芽生えるというか、奥底に少しずつ溜まっていく。
 それはあまりにも小さ過ぎて普段は顕在化することがないが、何かの拍子にフッと顕在化し、潜在意識を動かそうとする時がある。例えば吊り橋の上から下を覗いている時、飛び降りようか、というような意識が「湧いてくる」ことがあった。危ない、危ない、と意識を振り払い、再び潜在下に押しとどめたが、その時介護疲れで自殺した人の気持ちが少し分かった。

 衝動的だったり、思い詰めての果てではないのだが、その時の心理を第3者が描写しようとすると、結局そんな言葉でしか説明できないのだろうが、フラッと、まるでよろけるようにそちらに身体が傾いてしまうのだ。真面目に介護に取り組む人ほどそうなりやすい。
 そうならないためには手を抜くことが必要だと思う。すべてを自分で引き受けず人の手(ヘルパー等)を借りて、自分の時間を作り、旅行に行ったり趣味に没頭したり、介護のことを忘れる時間が必要だと思う。
 私の場合は500km余りという福岡との距離と、両地を行き来することが「手抜き(逃亡)」と気分転換になっていた。この行き来はたしかに大変ではあったが、それがなければ私の精神が持たなかったかもしれない。

施設選びは内部の様子を目で確かめて

 歳を取ってくると変化を好まない、受け入れないというのは程度の差はあれ誰しもに見られる傾向だろう。母の場合は特に最初の抵抗が強かった。まず、ヘルパーに来て部屋の掃除や炊事をしてもらうことを拒んだ。それを弟や近所の人の口も借りて時間をかけ、「一人の時に掃除したりするのは大変だろ。週1回でも2回でも来てもらったら楽やで。話し相手になってもらうだけでもいいんだから」と少しずつ説得していった。

 その次はデイケアセンターに週2回通わせることで、その次が施設への入所だったが、これは本人が望んだ。ただ本人がイメージしていたのは病院のような所で、調子が悪ければ数日入り、そこが飽きれば自宅に帰るという自由に出入りできる施設。それも自宅のすぐ近くで。
 そんな都合のいい場所なんかあるわけないが、幸か不幸か自宅前に市の診療所と入所施設があったものだから、診療所の医師にそこに入れて欲しいと何度か頼んだりしていた。医師からは「入りたければ入れてあげますよ。だけどおばあちゃんの話のように出たり入ったりはできないよ」と諭されていたようだが、本人は全然納得していなかった。
 要は老人性ウツと認知症から来る寂しさだ。それが分かったし、ケアマネージャーから「少し認知症も出ているようですから、どこか施設への入所を考えられた方がいいかもですね」と言うアドバイスもあり、入所施設を探し始めたのはいいが、全く予備知識なしで始めたものだから「老人ホーム」に種類があり、それぞれに入所条件があり、好きなところに入れるわけではないということなどが後になって分かった。

 まず種類は民間と公的施設に大別され、
 民間施設は
1.介護付き有料老人ホーム
2.住宅型有料老人ホーム
3.サービス付き高齢者向け住宅
4.グループホームと区分分けされる。

 公的施設には
1.ケアハウス(軽費老人ホーム)
2.特別養護老人ホーム
3.介護老人保健施設
4.介護療養型医療施設がある。

 一般的に経費は公的施設の方が安いから誰もが公的施設の方を利用したがる。当然、私もまず公的施設に当たった。
 訪ねて行き、説明を受け、内部を見せて欲しいと頼み、案内してもらい、パンフレットをもらって帰るか、可能ならその場で入居申し込み書まで記入して帰るわけだ。
 こうすることで実家からの距離、施設周辺の環境、入居条件、待機人数、職員の態度等々いろんなことが分かってる。

 一番の問題は経費だが、それと同程度かそれ以上に重要なチェックポイントは職員の態度だった。
 職員の対応やお年寄りに対する言葉遣い、お年寄りが職員に対し取る態度などを、注意してそれとなく見ていれば、入所しているお年寄りが快適に過ごしているか、そうでないかが分かる。
 具体的に言えば職員が大声を出してお年寄りを叱ったり、お年寄りが話しかけているのに無視したり、ひどいのになると叩いたり、あるいはお年寄りが職員に怯える態度を示したりしていれば、そういう施設はまず避けるべきだろう。
 こうしたことは入所前の簡単な内覧ですべて分かるわけではないが、少なくとも外部と遮断された閉鎖社会にしないことが内部の人を守ることに繋がる。
 だから私は岡山県でも福岡でも極力母の面会に施設を訪ね、訪ねて行った時は母の部屋でも過ごすようにした。それは家族が頻繁に面会に来ればイジメや虐待などは防ぐことができるのではと考えていたからだ。

待機人数は多くても入所順が早くなることも

 いくつかの施設を当たって驚いたのは順番待ちの人の数が多いことだった。田舎でさえ30人と聞かされたが、福岡の施設では100人と知らされ絶望的な気分になった。部屋が空くのはどういう時か尋ねると、お亡くなりになった時か病院に入院された時です、と言われれば順番が回ってくる前に亡くなってしまう。それなら申し込みをしてもムダだと、帰ろうとするとすると「100人待っているから100番目ということではない」と言われ、またまた面食らった。
 言われたことの意味を即座には理解できなかったが、皆さん1箇所ではなく複数の施設に申し込みをしているため、すでに他の施設に入っていたり、中には亡くなられる方も出るので、実際には順番が繰り上がることがあるということらしい。
 そう言われて初めてこちらの愚かさに気付いた。いままでバカ正直に1箇所にだけ申込書を出していたのだ。
 それからは手当たり次第ではないが、複数の施設に申込書を出し、時々いま何番目になっているかを確認するようにした。
 その結果、福岡のグループホームから突然電話があり、急遽母を岡山県の施設から退所させ、数日後に福岡へ連れて来て入所させたのだった。

 岡山県で入所していた施設は分類でいえば民間の住宅型有料老人ホーム。3食付きで部屋は個室。食事は食堂で入所者が一緒に食べる。食後はリビング兼食堂でそのまま他の入所者と話をしていてもいいし、自分の部屋に戻りTVを見たりして過ごしてもいい。室内の掃除や洗濯は基本は自分でするようになっているが、有料契約をすれば掃除、洗濯はしてもらえる。
 そして施設から週2日はデイケアにも通うなど楽しく過ごしていたが、認知症による寂しがりが進み、問題も色々あり、その度に母から福岡まで電話がかかってきて「もう、死にます」などと言って困らせるものだから、福岡の施設に入れた方がいいかもしれないと思い出した。
 それからである。福岡であちこちの施設を訪ね、申込書を出して行ったのは。しかし既述したように待機人数は100人前後。某グループホームでは「空いている所があるんですか」と男性職員に突き放すように冷たく言われたこともあった。当然そこには申込書も出さなかったが。

 そんな状態だから数年待ちを覚悟しながらも母の意志を折に触れ何度も確かめた。
「福岡へ来た方がいいか。福岡に来ても一緒には住めないよ。ここと同じような施設に入ることになるけど、それでもいいか」と。
「福岡でも施設に入るんじゃろ。分かっている。お前の近くがいい。その代わり会いに来てくれるんだろ」
「もちろん。福岡に来れば近いんだから、いつでも会いに行くよ」
 認知症だからよく分かっていないかもしれないと考え、期間を開けて同じようなことを何度か尋ねたが、「お前の近くがいい」といつも言う。これは一時の感情でも、勘違いしているわけでもなさそうだと思い、福岡での施設探しを本格化したのだった。数年待ちを覚悟しながら。

 経費面から言えば「特養」と言われる「特別養護老人ホーム」が最も安く、できれば特養にと思っていたが、特養は「要介護3」以上でなければ入れず「要支援2」の母は対象外だった。
 そうなると入れるところは公的施設ではケアハウス、民間施設は住宅型有料老人ホームとグループホームになる。
 ケアハウスは軽費老人ホームと言われるように経費負担は比較的軽いが、低所得者を対象にしているため年金受給額が多いとやはり対象外。グループホームは主に認知症の年寄りを対象にしている施設である。
 結局、母は岡山県では住宅型有料老人ホームに、福岡ではグループホームに入所した。

遠い施設より近くの方がいい

 いずれの場合も事前視察を行い、ここならよかろうと考え入居申し込みをしていたのだが予想が外れたこともあった。

 まず、いい方から。
両施設とも申し込みから半年かそこらで入所できたこと。待機人数は岡山県の田舎でも30人、福岡市では100人と言われていたので、最短でも数年の待ちを覚悟していただけに、半年程度の待ちで入所できたのはツイていた。
 当初、老人ホームの部屋が空くのは入居者が亡くなった時しかないだろうと思っていたが、むしろそれは少なくて、他の理由で退所するケースの方が圧倒的に多いということは後になって知った。
 では、他の理由とは何か。他所の施設に移るか、病気で入院する場合である。一時入院という場合もあるが、施設が部屋をそのまま維持してくれる期間は大体1か月間のようだ。それ以上、入院が長引くときは退所手続きを取らせられる。

 次に他所の施設に移るケースだが、同じ分類の老人ホーム、例えば住宅型有料老人ホームに入っていた人が別の住宅型有料老人ホームに移るケースは稀だろう。住宅型有料老人ホームから移る先は認知症の人を対象にしたグループホームが圧倒的に多いのではないか。

 これは母の入所先で実際に目にしたことでもあるし、施設の人から私自身が打診されたことでもある。「3食昼寝付き」で施設に入っていれば大なり小なり認知症が進むということもあるが、入所者同士のいざこざも起きる。
 昨日まで仲よく話をしていた年寄り同士が些細なことで仲違いをし、それまで隣り合って座っていた席も端と端に離れて座りだしたり、互いに口も利かなくなるということはよくあるようだ。
 そうした時、職員が仲を取り持つような対応をしてくれればいいが、見て見ぬ振りをしていると2人の関係は一向に修復できない。そこに認知症から来る短気が作用すれば喧嘩にまで発展する。
 そうなると「厄介な人」と見られ「他所の施設」へ移ることを「アドバイス」される。最初は転所をほのめかす程度だが、度重なるとイエローカード、レッドカードを突き付けられる。
 母の場合も若い職員から一度「別の施設をお考えになってはいませんか」と言われたことがあった。その時は真意が分からなかったので「いや考えていません」と答えたが、どうやら「扱いにくい人」と思われたらしい。そういうことも母を福岡の施設に移す一因にもなった。

 次は悪い方。
福岡のグループホームは事前視察も数度行っていたが、いざ入所してみると最初の話と違っていたことがあった。外出行事が一切なかったのだ。
 例えば九州でも岡山でも、私が花の撮影に行っていると車イスを押されたお年寄り達をよく見かけるものだから、ついつい引率の人に「今日は何かあるんですか」「どこからお出でなんですか」などと尋ねてしまう。
 その時の会話で介護施設に入っても時々外に連れ出し花見などをさせてもらえるのだと知った。「こんな風にされるといいね」とパートナーともよく話していたし、こんな施設に入れたいと考えていた。そして母が入った福岡のグループホームでもレクリエーションで外出するスケジュールがあることも確認していたが、実際には一度もそうした外出はなかった。代わりに私達が母を施設から連れて外出したり、自宅で食事を一緒にしたりを時々していたが。

 実はこのグループホームは第二希望だった。第一希望は別のグループホームだったのだ。第一希望のグループホームは建物は古かったが、中の人達がお年寄りに接する態度がとても温かく、アットホームな雰囲気があった。
 中心に皆が集うリビングがあり、その周囲に個室が扇形に配置されていた。リビングにいれば各人の動きが把握できる配置だ。

 第一希望のホームに空きが出るまで待った方がいいのか、それとも空きが出た第二希望のホームに入った方がいいのかは正直よく分からない。ただ、いつになるか分からない空きを待ち続けるより早く母を近くに呼んだ方がいいだろう。母も「お前の近くがいい」と言っているし、と思い、連絡が来た福岡のグループホームに入所させたのだ。

 最後に、母を入所させた後のこちら側の対応について。
遠く離れた、岡山とは言葉も違う地での生活ということもあり、最初の頃はほぼ毎日、少したってからも2、3日に一度は必ず施設へ会いに行き話し相手になるように心掛けた。
 自宅から徒歩20分、車なら7、8分という距離だったのがよかった。やはり距離は重要で、もし距離があれば週に2度が1度になり、そのうち月に数度と面会回数も時間も減っていったかもしれない。人間は誰でも楽をしたいと思うし、やすきに流れる。
 それでも私はできるだけ施設に訪ねて行くようにしていた。それは母を「独りぼっち」という気持ちにさせないということもあるが、施設の人に外部の目を意識させるためでもあった。
 入所者の家族が誰も来ない、来ても時折となると、情報が外に漏れない閉鎖社会になってしまう。ところが頻繁に家族が訪問してきて30分~1時間も居るとなると、時々問題になる施設内のイジメや虐待の防止になるかもしれないと考えてもいたからだ。

 以上、個人的な経験から施設選びについて縷々書いてきたが、最後にまとめておこう。
1.老々介護は頑張らないこと。自分の時間を作り、自分の生活を楽しみながら行う。
2.手抜き介護のための手順はまずヘルパーを活用すること。
 次にデイケアーなどの通所施設の利用
3.老人ホームの種類は多いから、被介護者の状況によってどこが利用可能か調べる。
4.入所施設はできるだけ丹念に事前視察しておくこと。金額だけでなく中の雰囲気、職員の対応・態度をよく観察しておく。
5.入所申し込みは1か所ではなく複数、それもできるだけ多く出しておく。
6.自宅から近い施設を選んだ方がいい。
7.被介護者を寂しがらせないためにも面会を。
8.面会は施設に外部の目を意識させる役目もある。



# by kurino30 | 2020-10-30 18:57
「息子に殺される〜」。母は病室で叫んだ。
 「息子に殺される〜」。病室で眠っていた母が突然、大声でそう叫んだ。それも一度ではなく二度、三度と叫び、そう叫ぶ自分の声で興奮し、手が着けられなくなった。母を落ち着かせるため、やむなく私は一時病室を離れた。それが母と交わした最後の言葉になった。

 入所していたグループホームの主治医(グループホームはその医療法人の運営)から何度目かの呼び出しがあった時、ある程度の覚悟はしていた。「うちでは最期の看取りまではできない。提携病院があるからいよいよとなるとそちらを紹介はします」とは途中で医師から言われていたから、ついにその時が来たか、病院に移れという話だろうと覚悟しながら医師と面談した。
 「先生、ズバリお聞きします。余命はどれくらいですか」
「これだけは何とも申し上げようがありませんが、腎機能が落ち、排尿もありませんから早ければ数日、あるいは1週間かも分かりません。何とも分からないのですがこの数日、排尿がないし、血液検査の数値を見ると、数日後でもおかしくはありません」
「ということは今日でも入院した方がいいと」
「市医師会病院が対応してくれると言ってくれたので、10時頃には入院すると連絡しています」

 えっ、そんなに急を要する話なのかと驚くとともに、一昨日までごく普通に話もできていたし、ホームで普通に生活していたのにと多少訝りながらも、医師は数値を見ながら言っているから外見からはそう見えなくても危険な状態なのだろうと考え、医師の勧めに従い、即病院に連れて行くことにした。
 もちろん母はそんな事情は知らないし、バートナーと一緒に顔を見せると「あらっ、二人揃って来てくれたんか」と喜んでいた。
 無邪気に喜ぶ母を騙して入院させるのは心が痛んだが「ちょっとこれから検査に行こうかね」と明るく言い、車に乗せた。いつもは同じ敷地内の医院で診てもらっているから車で行くことに疑問を感じたのだろう、どこへ行くのか、なぜ行くのかなどと尋ねるが、適当に誤魔化しながら連れて行った。

 私一人だとそうも行かなかったと思うが、パートナーがいてくれたお陰で母は大した疑問も感じず、あるいは疑問を感じながらも何となく従ってくれていたのだろう。
 それでも病室に入り、ベッドに移され、今まで見たことがない顔の人達が寄ってたかって色んなことをしだすと異常に気付いたようです「お前は私を騙したんか」と怒り出した。
 母を騙したのはこれで二度目だ。一度目は弟が入院中の病院まで連れて行った時。今、会わせておかなければ、もう二度と弟の顔を見ることはできないと考えたから、岡山県で入所していた施設から連れ出し、神戸の病院まで連れて行った。
「見舞いに行きたいと言っていたやろ。これから弟の見舞いに行こうか」
「えっ、これから行くんか?」
「そうや、これから行こ。会いたいと言うとったがな。彼女も来てくれてるから3人で神戸まで行こ」
 そう言って連れ出した、これが今生の別れになるとは伝えず。そして今回だ。もう二度と家に戻ることはおろか、グループホームにさえ帰れないのに詳しいことは何も説明せず慌ただしく連れて行った。

 入院直後の検査で「1週間、早ければ数日後」と医師から言われ、3日後には「延命治療は希望されないということでしたから、もう点滴もやめましょう。胸水が溜まっていき、ご本人も苦しむだけですから」と言われ、即日、繋がれていた管が全部外された。「後できることは看取りだけ」になり、看護師からも「会わせておきたい身内の人がいれば今の内に」と告げられた。

 ところが、である。持っても1週間のはずが1週間、2週間、3週間と容態は変わらず推移したのだから、人の命というか生命力は分からないものだ。その間、毎日病室に通い続けたが、もしかするとと思わないこともなかつた。
 その頃になると「看取りしかない」と言った医師も看護師も口をつぐんだばかりか、長期戦になりそうだと考えたらしく、老人病院への転院さえ勧めてきた。一体とうなっているのだ。診立て違いかと思うほど母の容態は安定していたが、それでも少しずつ起きている時間が短くなり、私はベッドの側で母の手を握ったまま本を読んだり、音楽を流したり、眠ったままの母の耳元で昔話をしたりして過ごす時間が長くなっていた。

 そんな時である。突然、大声を上げて叫んだのは。「息子に殺される〜」。廊下に人がいたら、介護に疲れた息子が母親の首でも締めているのではないかと勘違いしただろう。
 勘違いはたしかにあった。施設に入所している頃から「お父さんが迎えに来てくれん。向こうにいい人でもできとるんじゃろうか」と言っていたから、眠ったままの母を見ながら、いよいよ旅立ちの準備をしているのかもしれない、別れは今日、明日かもと思い、耳元で静かに話しかけていた。
 「お袋、よう頑張ったな。もう、いいよ。親父のところに行っても」
 この言葉を聞いた直後に叫び声を上げたのだから、こちらの方が驚いた。眠っていると思ったが眠ってはいなかった。耳は聞こえていたのだ。
 早く逝けと言ったわけでも、そう思ったわけでもないし、それまでだってそんなことを口にしたこともない。それなのに。
 むしろ私が期待したのは「迷惑をかけたな。ありがとう」という言葉で、最期にはそんなことを言ってくれるのではないかとさえ思っていた。それが正反対の言葉が口から出ようとは、それこそ想像だにしていなかった。
 正直、これには悲しさと同時に腹立たしさを覚えた。

 耳は最後まで聞こえているーー。そう言われることも知っていた。だが、まさか、というのが、この時の正直な思いだった。
 その後、食事をさせようと、いつものように軟らかいものをスプーンで口に持って行ったが、母の興奮は収まらず、茶碗を壁に投げ付けようとさえした。興奮を鎮めるためパートナーに促されて私が病室を出ていった後、どこにそんな力が残っていたのかと思われるほどの激しさで茶碗を壁に投げ付けたらしい。

 これが母と交わした最後の言葉になった。翌日から眠ったままで3日後の夕刻、私が見守っている前で、まるで映画のように、突然、呼吸が止まり旅立った。
 親父、妻、弟、母と最期を看取ってきたが、最も手がかかったのが母だった。それだけに最期の言葉が「殺される〜」はあまりにも情けなかった。

# by kurino30 | 2017-12-09 11:15
認知症は生きる知恵かも
 認知症も悪いことではない。むしろ生きる知恵ではないのか--。
数年前、帰省して医師と面談し母の状態について説明を受けていた時、ふと、そう感じた。
 医学的見地からすれば認知症は病気であり、病気である以上治る治らないは別にしてマイナスと捉える。そのため医師はなんとか症状の進行をストップさせようとするし、私達もそういう目で見、接してしまう。すると結構ストレスがたまる。早い話、何度も同じ質問を繰り返されるからイライラするのだ。
 それでもこちらに精神的余裕がある場合はいい。ところが相手はこちらの状況などお構いなしに、自分の都合でいろんなこと(どうでもいいようなこと)を言ってくるし、自由気ままに振る舞う。症状が重くなると徘徊という行動にも出る。これにいちいち返答し、対応しなければならないから、日常的に接している家族はストレスとフラストレーションが極度に高まってくる。

介護疲れで「出口なし」に

 私自身もそうだった。まだ母の認知症が比較的初期症状の頃が最もストレスがたまり、自殺を考えるところまではいかなかったが、介護疲れで自殺する人の気持ちが実感できた。
 その頃、月の半分近くを帰省して母の側で過ごしていたが、日に何度も同じことを聞かれたり、突然情緒不安定になって訳も分からず泣き出し、挙句には「死にたい」と言われる。
 参るのはいままで上機嫌だったのが、突然情緒不安定になりマイナス思考に陥る時だ。もう、そんな時はどこかへ逃げ出したくなり、時にカメラを持って近くの野山に逃避したりしていたが、ある時、吊り橋の上から下を見ていて、このまま落ちれば(まだ「飛び降りれば」ではなかったが)死ねるな、という考えがふと頭に浮かんだことがある。
 危ない、危ない。介護で追い詰められ、ふっとそんな気持ちになった時、そのままふらふらと行ってしまうのだろうと、その時分かった。
「一人で抱え込まないようにしてくださいよ」
 実家近くでデイサービスを行っているケアマネージャーが時々そう言ってこちらを気遣ってくれたが、相談相手がいないと悩みは出口なしの堂々巡りになる。実際その頃、私は胃がキリキリ痛み、このままではこちらが病気になると思ったものだ。
 それでも病気にもならずにいままで来られたのは、一つには私の住所と実家の間に距離があったことがある。なんといっても高速自動車道を走って7時間の距離である。「来てくれ」と言われても即行ける距離ではない。それがよかった。いわゆるオンとオフの切り替えができたわけで、それで精神のバランスが保たれていた。

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何段階かに分かれて進む症状

 その後も母の認知症は緩やかではあるが確実に進行していた。このままでは早晩寝たきりになることも覚悟する必要があると考え、迷いに迷い、悩みに悩んだが、最終的に福岡に連れて来て、近くのグループホーム(あるいて30分足らずの距離)に入居させた。
 住み慣れた場所を離れさせることについてはプラスマイナス両面があり、医師等の専門家数人に尋ねたが彼らの意見も分かれた。
 環境の変化で認知症が一気に進む可能性もあるし、環境変化に戸惑うのは最初だけだから、どこでも一緒だと言う医師もいた。結局、誰も先のことについては分からないのだ。
 母の変化について言えば、恐れていたようなこと(急激な進行)は起きなかった。むしろ私に頻繁に会えることを喜んでいたが、それでも故郷への想いは断ち難く、「家に帰りたい」と折に触れ訴えられるのが辛い。その間も認知症は確実に進み、この頃は食事をしたことさえ時々忘れだした。

 そんな母をずっと見てきて、認知症の症状にいくつかの段階(初期、中期という段階ではなく、症状の現れ方の違い)があることに気付いた。もちろん、それは母固有のもので、誰にでも当てはまることではないだろうが、もし同じように身内に認知症の人を抱えている人がいれば何かの参考になるかもしれないと思い、以下に記してみる。

1.少女期に戻る(回想話が多い。我が儘になる)
2.愚痴話が多くなる(回想話が多い。我が儘になる)
3.嫌なことを忘れる(回想話が減る。我が儘が減り、感謝の言葉を口にし出す)

両親を名前で呼びだした母

 初期症状の頃、母は少女に戻っていた。小学校や女学校に行っている時の話、要は結婚前の話を繰り返しするようになった。もしかすると、その頃が母の人生で最も輝いていた頃だったのかもしれないと思ったりするが、自慢話だけでなく僻みっぽい話も多かったから、果たして「輝ける青春時代」だったのかどうかは分からない。だが、いままで知らなかった母の人生、精神(こころ)の変遷を垣間見ることができたのは事実だ。
 例えば親の愛情に飢えていたのに、どうも子供の頃、母親は姉の方をかわいがり、自分はそれ程かわいがってもらえず「私は本当は両親の子供ではなく、橋の下に捨てられていた子だったのではないかと思っていた」ようだ。生家が商売をしていたため親は子供に構う時間がなかったし、当時の時代背景からすれば子供が家の家事手伝いをするのはごく普通のことだったと思うが、母の精神(こころ)の中には、同じ姉妹なのに姉の方ばかりかわいがられ、自分は母親に疎んじられたたという意識がずっと残っていたようだ。

 この頃、母は両親のことを名前で呼ぶようになっていた。「お父さん」「お母さん」あるいは「おじいちゃん」「おばあちゃん」ではなく「Rさん」「Kさん」とまるで他人のように両親を名前で呼ぶのだ。これには随分違和感を覚えた。私はいままで母の言動から母娘仲はいいと思っていたし、箱入り娘とまではいわないが「お嬢さん」として育てられてきたはず。だが、母には両親、特に母親に対する不満があり、それを精神の奥深くにしまい込み、他人には言わずにきたが、認知症になったことで理性という蓋が取れ、いままで仕舞い込んでいたものが表面に出てきたのだろう。
 しかし、それは悪いことではない。もし、そのまま精神(こころ)に蓋をし、仕舞い込んだままだったら、いつか精神のバランスを壊していたに違いない。認知症はそうならないための防止策ではないか。そう思い始めた。

姑その他への愚痴話が増える

 母の第2段階は姑その他への愚痴だった。姑にバカにされ、虐められた愚痴話。その一方で親戚や近所の誰それに対し、子供の頃から面倒見てきたのに見舞いにも来てくれないと愚痴をこぼすことが増えた。
 これは孤独感に老人性うつ病が加わったのだろうと考え、孤独感に陥らないように「見捨てはしない」というメッセージを発し、実際、言葉でも伝えて、極力会いにも行っていた。すでにこの頃には実家近くの施設(自立支援型小規模多機能住宅)に入居させ、週3日はデイサービスにも通うようにしていたが、それでもそのほかの時間は自室で一人で過ごさねばならず、その孤独感に苛まれていたようだ。
 しかし、すべてを満足させることは難しいし、すべてを望むのはやめてくれ。せめて何か一つは我慢してくれ。でないと共倒れになる。
 すでに、もう充分、俺の時間をあなたのために割いてきている、というのが私の言い分だが、それを言って理解できる頭ではなくなっているから、言いたくても言えない。それがこちらも辛い、というか、こちらのはけ口がない。24時間、自宅で面倒を見ている人の大変さがよく分かる。よく発狂せずにいられるものだと感心さえする。

 とにかくこの段階が私自身は一番苦しかった。なんといっても愚痴話、マイナスの話はこちらにも負の影響を与える。精神的によくない。かといって、「その話は何度も聞いた」「もうやめろ」などとでも言おうものなら、母はより孤独感に陥るだろう。「息子だから愚痴を言っているのに、その息子にまで愚痴を聞いてもらえないのか」と、一度ならず言われたこともあるし、ある時など「お願いだから怒らないでくれ」と言われビックリしたことがあった。
 「怒ってないだろ」と言ったが、認知症を患った相手は言葉ではなく、表情や声の調子を敏感に感じ取るようだ。「怒られると、よけい訳が分からなくなる」と泣き出したのを見て、もしかすると私の態度が母の認知症を進めているのかもしれないと反省した。
 頭では常に理解しているのだが、時として感情が先走りそうになる。それを抑えながら接するにはどうすればいいのか。この頃はそれを自問自答し、悩み続けた日々だった。

毎回繰り返される会話

 昨春、母を福岡のグループホームに入居させてから認知症に変化が見られた。最初の内は2日に一度、いまでも週1か2週間に三度の割合で面会に行っているので以前ほど寂しがらなくなったが、その間も認知症は確実に進んでいた。
 いまではつい先ほど自分で言ったことを忘れ、まるでテープを巻き戻すように何度も同じことを質問したり話したりするようになった。ただ、こちらも対応にかなり慣れてきたので、何度同じ話をされても初めてその話を聞くように答えられるまでになった。二人の会話を第三者が聞いていると「おかしいんじゃないの」となるに違いない。
 実際、入居者の中に一人、それほど認知症が進んでない人がいて、そのおばあちゃんは私を含め他の入居者達との会話が我慢できないらしく「何度も来られているじゃない」「この人はおばあちゃんの息子さん。何度言えば覚えると」と、面会に訪れる私に興味を示し、毎回、同じ質問をするおばあちゃんに教えようとする。だが、相手はそんなことを分からない。認知症を患った人にとっては、その瞬間瞬間が現実なのだから、例え3分前に見たり聞いたりしたことでも、いま目の前にある光景こそが初めて見る光景で、3分前の光景は完全に消し去られている。
 かくして、私が訪れると毎回次のような光景が数分おきに繰り返される。
「こちらはあなたのご主人?」とAさんが母に尋ねる。
「主人なわけないでしょ。息子。長男です」と母
「えっ、息子さん? 初めて見た。いい男ね」
「なに言いよんしゃると。もう何度も見えられとろうが。こちらはおばあちゃんの息子さん。何度言えば覚えると」と認知症がほとんどないBさんが多少イラついて教えようとする。
「まあ~息子さん。いい男ね。惚れ惚れするわ」とAさん
「ありがとう、ほめてくれて」と母

 私がグループホームを訪れると、まるで決まり事のように、こうした会話が繰り返される。皆、認知症とはいえ、いつもと違うものを見たり、いつもと違う人と話をしたいという欲求、好奇心、刺激を求める精神があるのだろう。母自身もよく訴える。「また来てね。身内の顔を見れば刺激になるから」と。

正常を保つために忘れていく

 直近のことは忘れるが、昔のことはよく覚えている。それが認知症の特徴と言われているし、そう思っていた。だが、母と話していて記憶が段階的に微妙に変化していくことに気付いた。既述したように少女期の話が多い時期と、姑等に対する愚痴が増えた時期へと変わり、いまは愚痴が減り、むしろ感謝の言葉を口にするようになった。
 脳が委縮し、思考する力が衰えたのだろうが、ある時何かの拍子に「おじいさんのことは覚えているけど、おばあさんのことは覚えてない」と母が口にし驚いたことがある。どうやら記憶から姑に関する嫌な記憶が消えたというか、消してしまったようだ。
 記憶があれば楽しいこともあるが、その逆もある。だが長年生きていればいいことばかりではなく、嫌なことも数多くあるだろう。記憶から嫌なことだけ消せればいいが、そういうわけにもいかない。それならいっそ記憶そのものを消し去り、いまを生きる方がいいかもしれない。そうすれば穏やかな気持ちで毎日を過ごせる。
 いまを生きる知恵--それが認知症ではないだろうか。神が与えてくれた力、認知症。そう考えれば認知症も悪くはない。
 人は彼岸に行く前、すべての煩悩を捨て去る。母は煩悩を捨てる準備を少しずつ始めたのかも分からない。
# by kurino30 | 2016-02-05 23:07
終着に向けてラストウォーキング
 よく生きたものはよく死ぬ、という言葉はあっただろうか。よく死ぬとはよく生きることである、だったか。いずれにしろ終焉をどう迎えるのかというのはとても難しい。
 それはきれいごとでは済まないからだ。本人の意向と家族の意向が違うことはよくある。家族にすれば1日でも長く生きて欲しいと思うが、本人の方は機械によって生かされているような生き方はしたくない、あるいはこの苦しみから早く解放されたい、と思うから延命処置は必要ないと言う。それでも本人の意思がそのまま通るとは限らない。意識がなくなれば後の処置を決めるのは残された家族だからだ。

 弟は自らの意思で終焉の迎え方を決め、いま終着に向かって静かに歩み始めている。私は1週間前に続き、昨日、再び病院を訪れ、「よく頑張った。もう力を抜いていい。ゆっくり逝け」と弟に話しかけてきた。
 弟がラストウォーキングを始めたのは4月20日。それより数日前、17日の午前10時、電話がかかってきた。
「兄貴、21日の週に来ると言っていたけど、いつなのか日にちを決めてくれ」
 日にちを決めろとは妙なことを言う。1日ベッドで寝ている身になにか都合でもあるのかと訝り、思わず「なにかあるのか」と問い返した。
「痛くてたまらんのや。もう、このまま永久に眠りたい。そうさせて欲しい、と皆に言っているんや。それでも兄貴の顔を見ずに行くわけにはいかんから。21日の週に兄貴が来ると言っているから、それまでは頑張るから、と先生には言っているんや」と泣く。

 電話口で言った弟の言葉が気になった。「21日に行く」とは返事したものの、すぐにでも行ってやった方がいいだろうと考え、それからバタバタと雑用を済ませ、車に荷物を積んで中国道を走り、取り敢えず岡山県北東部の実家まで帰ったのが17日の夜中。場合によってはGWが終わるまで滞在することも覚悟し、黒服も持って帰った。

 翌18日、病室で見た弟のあまりの痩せように驚いた。この1か月あまり点滴のみだから痩せるのは仕方ないが、目が窪み、頬がこけ、骨と皮のようになっていた。1か月前に母を連れて見舞いに行った時はまだそれ程痩せてはいなかったのに。

 母を弟に会わせるかどうかは随分迷った。入院している弟の姿を見てショックを受け、認知症が進むのではないかと恐れたのだ。
 それでも連れて行ったのは、「見舞いに連れて行ってくれ」と母が言っていたのと、「私がお母さんなら会いたいと思うよ」と言ったホームドクターの言葉に後押しされたからだった。
「会わせるならお母さんも弟さんも元気なうちの方がいいでしょう。いよいよになって会うとショックも大きいでしょうから」

 そうか、そういう考え方もあるかと思い、神戸まで連れて行くことにした。車で1時間半の距離は微妙だった。年寄りには疲れるだろうし、なにより車内に2人きりだとどうしても空気が重苦しくなる。ただ幸いだったのは、そうした事情を理解した彼女が福岡から同行してくれ、ずっと母の話し相手をしてくれたことだ。
 母はこれが親子の最後の別れになるとも思わず、久し振りに賑やかなドライブを楽しんでいた。

「もう痛み止めも限度一杯使っているんや。それでも夜眠られん」
「よう生きてきた。よう頑張ってきたんや。もういい」
「兄貴の顔を見ずに行くわけにいかないから。兄貴が来るまではと思っていたんや」
 延命処置は望まない、と入院時に伝えていた。「もう眠らせてくれ」というのが本人の意向だが、あまりにも淡々と話すので、「眠りたい」というのが、「夜、ぐっすり眠りたい」ということなのか「永久の眠りに就きたい」ということなのか、正確には分からなかったが、意味を本人に確認するのはさすがにできなかった。

 数日後、弟嫁から突然ケータイメールが届いた。
「彼はもう携帯は使える状態ではないです。お兄さんに会ってから終着に向けスタートすることを決めていたので、日曜日からそれに向けての注射を始めました」
 弟に連絡する時は電話ではなくケータイにメールするようにしていた。眠っている時に電話で起こすのは可哀想だからだ。目覚めてメールを見れば弟が電話をしてくる、というのが入院後、2人の連絡の取り方だった。
 ところが数日前に病室に弟を見舞った後、メールを2度ほど送っているのに電話がないので、おかしいなと思っていたところだ。

 起きていると痛みを感じて苦しいから、できるだけ眠っていられるようにしましょう。医師からはそう聞いた。
 もう他の処置をせず、眠ったまま自然に旅立てるようにして欲しい。それが弟の希望だった。最初は反対していた家族も、最後は弟の懇願に負けた形で折れたようだ。

 ケータイメールが届いた翌日、再度病室まで飛んでいった。
「○○さん、お兄さんが来られましたよ。分かりますか。目を開けて下さい」
 看護師が弟にそう呼び掛けてくれた。
 弟の名前を叫ぶ私の声はもう涙声だった。
「お兄さんが来られたの、分かっていますよ。涙を流してはるから」
「目は開けんでいい。瞑ったままでいい」
 なんとか目を開こうとする弟の動きを見て、私は弟にそう呼びかけた。
来ていることが分かっているなら、こちらの声が聞こえているなら、それでいい。

「おこひて、おこひて、おこひて」
 突然、弟が呂律の回らない声を発した。とっさにはなにを言っているのか理解できなかったが、どうやら体を起こしてくれと言っているらしいと分かり、電動ベッドを調整して、上体を少し起こしてやった。
 病室にいる間、弟が声を発したのはこれだけだったが、何度も何度も弟の眼から涙が流れた。

 1時前、病室を出て昼食をとっている時、突然、弟の考えが頭に浮かんだ。終着に向けてラストウォーキングを始めたのは、痛みや苦しみから逃れるためではなく、いや、それはもちろんあるだろうが、むしろ家族への思いやりだったのだ、と。
 ホスピスに入院してから、ことあるごとに嫁や息子の「了解をとって」、嫁に「済まないなと言いながら」と、家族に遠慮するような口ぶりが目立った。
 そういうことも併せ考えれば、できるだけ早く旅立った方が家族の負担が少なくなると考えたに違いない。

 数か月前、母を連れて行こうと思っていると弟に告げた時、弟は拒否した。あまり激しく拒否するので驚いたが、望まないのに会わせるのはやめようと計画を断念。ところが翌朝、電話がかかってきて「お袋は会いたいやろうな。会いたいと思うわ。連れて来て」と言ったので、この時も急遽、福岡から飛んで帰った。思えば私の行動はいつも急遽だ。

 この時すでにガンは膵臓から肝臓、リンパ節に転移しており、腸閉塞も起こしていたので、口から摂ることができるのは液体のみ。それも鼻からチューブを胃まで入れ、飲んだものを常時排出する処置を取っていた。「こんな姿をお袋には見せられない」。それが最初、拒否した理由だった。
 母を連れて行った時、弟はマスクをして鼻に入れているチューブが見えないようにしていた。私と違いどこまでも気を使う奴だった。

 弟のこうしたやさしさを考え併せた時、今回の弟の行動が全て理解できた。
病室に戻り弟に声を掛けた。
「お前の考えはよく分かったよ。家族への思いやりだったんだな。もう楽になっていい。力を抜いていい。ゆっくり逝け」
 弟の眼からまた涙が流れた。
目元をタオルで拭いてやり
「もうこれでお別れだ」
そう声を掛けて病室を後にした。
# by kurino30 | 2014-05-16 10:55
悲しみの数だけ人はやさしくなれる。
 「お義兄さん、何がきっかけだったんですか」
1昨年の夏、すい臓がんの手術をした弟を病室に見舞った後、弟嫁からそう尋ねられた。
「私達の前では涙なんか見せたことがないのに、お義兄さんの姿を見た瞬間泣いていたでしょ。それだけお義兄さんを信頼しているんですね」

 実は兄弟仲は長いこと悪かった。弟から家に電話がかかってきても私が出ることはなく、妻を介しての三角会話をするほどだった。何が原因で兄弟仲が悪くなったのかいまとなっては思い出せないが、事あるごとに私に突っかかるような言い方(と当時は感じていた)を弟がしてくるのが癇に障わっていたのは事実だ。
「たった二人しかいない兄弟なんだから、もう少し仲良くしたら」と、なんども妻に言われていた。
 その頃は「血の繋がり」という言葉が疎ましくもあった。血の繋がりという生物学的な関係より、環境や思想を共有する関係の方に近さを覚えていた。私は自分の自我やアイデンティティーの確立は学生の頃だと思っていたから、それまでは単に人生のある時期を一緒に過ごしたというだけの関係に過ぎない。弟といえどもその点では同じだった。
 ところが妻の死をきっかけに二人の関係が一変した。それまでの不仲から一転して、互いを思いやる仲の良い兄弟へと変わったのだ。妻の置き土産かとも思うが、同じことなら妻の生前にこの姿を見せてやりたかったといまごろ後悔している。

 何がきっかけ、と聞かれても困るが、大体、不仲の原因なんてちょっとした行き違いや、思い違い、誤解から生じていることが多い。要はコミュニケーション不足だ。
 国と国との関係、親子でも同じことだろう。零細企業は家族経営がほとんどだろうが、家族経営であるが故の難しさもある。親子の関係が一度こじれると他人より修復が利かなくなる。聞けば大抵親子間で会話がないと言う。日常会話ならまだいいが、そこにとどまらず社長と社員としての仕事上の会話もほとんどないと言うから、よく会社が回っていると感心する。
 しかし、よく聞いてみると互いが互いの判断でやっており、組織としてやっているわけではないようだ。中小零細企業の弱さは案外この辺りにあるのかもしれない。
 もし親子間コミュニケーションがないと思われている企業は一度、血縁を離れて、相手を他人、社長、社員として見てみればどうだろう。他人に仕事をしてもらう場合、目的、仕事の流れなどの報告、連絡、相談をしないことには仕事がうまく捗らないことに気付くのではないか。なあなあで済ませてきたことを言葉に出して言うことが必要だと。

 「兄貴は義姉さんがいないと何もできないだろう」。弟が私によく言っていた。当時はこうした言葉さえ、どこか私に突っかかってきているようで疎ましく感じていたが、妻が他界した後しばらくして電話があり、「兄貴、食事はちゃんと摂っているか。不自由しているんではないか」と言われた時、不思議と素直な気持ちで聞くことが出来た。
 多少哀れみの気持ちもあったのだろうと思うし、こちらも気弱になっていたこともあり、弟の言葉にそれまでとは違うやさしさを感じた。早い話が互いに一歩か半歩ずつ引いた瞬間、相手の言葉がストンと腑に落ちたのだ。
 まさに氷解という感じだった。それまでのわだかまりが一気になくなり、互いが互いの言葉を素直に聞けるようになると、長年の不仲を取り戻すように相手を思い遣り、かける言葉がやさしくなっていった。私が帰省すると弟も神戸から帰って来るし、二人で旅行に行ったりと母が嫉妬するぐらい仲良くなった。

 「悲しみの数だけ人はやさしくなれる」。そんな言葉をどこかで見たような気がする。歳のせいもあるかもしれない。それまではなんでも出来ると思っていた自分が、そうではなかったと気付いた時、人の弱さを受け入れることが出来るようになり、同時に自分の弱さも受け入れた。
 「我慢しなくていい。泣いていいんだ。思い切り泣けばいいんだよ。泣けば少しは楽になる」
 昨秋、「医師から春がヤマと告げられた」と涙声で言ってきた時、私は弟にそう声を掛けた。
「お前が男として、父として頑張ってきたことは家族の皆も分かっている。だから我慢せず泣いていいんだ」と。

 この数年、年明けに弟も帰省し、一緒に過ごすのを恒例にしてきたが、今年はしんどいから帰れないと言ってきた。そして1月中旬。食事がほとんどできないと言う。
「できるだけ自宅で過ごしたいんや。今度、入院すると・・・」
 その次の言葉は発しなかったが言わんとすることは分かった。それでも私は再入院を強く勧めた。
 いままでは一切ああしろ、こうした方がいいとは言わなかった。
経験者が陥りやすいのは自分の体験を相手に押し付けようとする嫌いがあることだ。粒子線治療で治った人はそれが絶対のように言うが、治療法には相性のようなものもある。だから、この治療法がいいとも言わなかった。ただ、こういう治療法もあるぞ、という情報を伝えるだけにした。
 抗がん剤治療を拒否した時もなにも言わなかった。というか常に弟が選んだ方法を追認するようにしてきた。だが、今回だけは「お願いだから入院してくれ」と頼んだ。医師の監督下に置かれた方が衰弱しないと思ったからだ。

 入院したと聞き、できるだけ早く見舞いに行くと返事すると「慌てて来なくてもいいよ。元気なんだから。まだ寒いから暖かくなってからゆっくり来ればいいよ。来て欲しくなったら、早く来てくれと連絡するから」と言っていたが、その1週間後、「兄貴、早く来てくれ」と言って電話が切れた。
 弟はその後ホスピスに転院した。再入院した時から緩和ケアしか行ってない。
人は悲しみの数だけやさしくなれる、という。
でも、私はもうこれ以上やさしくならなくていい。
もう同じ悲しみを味わいたくはない。
# by kurino30 | 2014-05-09 10:35